副題:SNSが作る“見る側と見られる側”の主導権構造

SNSで「メロい女になれてるの?これって」と自撮りを上げた瞬間、
彼女は“メロいから“チョロいに変わった。

そう言われたら、あなたはどう思うだろうか。

この短い言葉の裏には、恋愛心理だけではなく、現代の承認構造が潜んでいる。

この記事では、「メロい」と「チョロい」を通じて、
“選ばれる側”がどうやって“選ぶ側”へと転化するのかを考えてみよう。


SNSの恋愛的自己演出は、いつの間にか「評価を得る演技」に変わってしまう。

演じるつもりが、演じさせられる構造に陥るのだ。

誰だって、ちょっとだけ綺麗に、可愛く、格好よく見せたい。

それは自然な自己演出だ。

だが、評価が増えるほど、私たちは“観客の期待”に引きずられていく。

「メロい=幻想を意識的に操作する主体」

「チョロい=幻想を他者に奪われた主体」

この構造を理解することで、SNSでの自己表現は再び“自分の舞台”に戻せる。

つまり、見られる私を取り戻す鍵は、「幻想の主導権」を奪い返すこと。

評価を気にせずに投稿できる人は少ない。

だからこそ、演者であり続ける方法を知る人だけが、生き残る。

ここからは、“観客の視線”を操る具体的な思考術に入ろう。

なぜ、メロいはすぐチョロいと呼ばれるのか?

それは、幻想の主導権が奪われる瞬間が、可視化されやすいからだ。

SNSとは、幻想を共有し合う「観測装置」だ。

投稿は「見る側と見られる側」の力学で成立しており、
“幻想を供給する側”が主導権を持っている限り、演者は自由でいられる。

だが、観測者が脚本を奪った瞬間、
彼女は“演じる私”ではなく“演じさせられる私”になる。

それが「チョロい」と呼ばれる構造だ。

読者がこの構造を理解したとき、
「評価」と「支配」の関係を見抜く眼が生まれる。

あなたがSNSで何かを発信するとき、
その言葉は“あなたが観客を選ぶ行為”でもある。

幻想を設計する者であり続けよう。

まとめ

SNSとは、評価の海に浮かぶ舞台である。

「メロい」と「チョロい」の差は、
演じる主体でいられるか、演じさせられるか、その一点に尽きる。

幻想を支配することは、世界を操ることではない。

むしろ、自分の物語を誰に預けるかを決めることなのだ。