戦争の記憶を語り継ごう ③
かみしばいの「とけたビー玉」は徳山空襲の物語でした。
実際に徳山空襲を体験した人の話です。
徳山大空襲での私の経験 兼弘冨士巳さん(下松市花岡在住 84歳)
昭和20年7月27日の夜「空襲警報!」という声と近所のざわめきで目が覚めた。電灯はつけられない。父と薄明かりの中で、残したいものを手早く油化した防空壕と五右衛門風呂に入れ、防空頭巾をかぶり、父母私の3人で2キロ先の伯父の家まで夢中で走った。 空を見上げるとB29から投下される焼夷弾(しょういだん)の束が花火のように降り注いでいる。道は逃げまどう人でいっぱいだった。住んでいた新町の町筋ももう火の手が上がり始めていた。当時16歳だった私は体力の続く限り本気で走った。そしてなんとか三人無事伯父の家にたどり着くことができた。
その20分後、伯父の家の下手模倣に、小型と思われる爆弾が投下され火災が起きた。後の点検でわかったことだが、家の2階の雨戸の戸袋に鋭利な刃物のような爆弾の破片が突き刺さっていたその夜は一睡もできなかった。
翌朝、着の身着のままになった私は、使命感から燃料廠(ねんりょうしょう)の疎開地に向かった。まだ熱のある瓦礫の道をたどりながら代々木小路を過ぎた頃から、道路わきの側溝の中に焼けただれた死体が見えるようになった。歩み進めるにつれ、その数は増えてゆく。私は恐怖心に襲われ立ち止まってしまった。そして前にも後ろにも歩けなくなった。進退きわまるとはこのことか。少ししてたまたま通りあわせた燃料廠(ねんりょうしょう)のトラックに拾ってもらい、やっと疎開地に向かうのであった。
あれから68年今の平和を何よりもありがたく思うのである。
「まなびピア くだまつ 終戦記念日によせて」