先日、京都で訪れた聖護院は、大峯山を歩く奥駆け修業を行ないます。
その他、密教や修験道では、護摩をはじめ、様々な荒行を行ないます。
荒行は何の為に行なうかと云うと、修業の中で常に眼の前に死を意識し、修業の度に臨死体験します。
それを繰り返す事で、死に対する恐怖を消して行き、また日常の猥雑な事を卑小な事であると認識して行きます。
さらに、いざと云う時に、冷静で、また強い生存本能により、何事も一瞬の力で乗り越えて行く力を身につけて行きます。
修業は、どんな荒行であれ、とても危険です。
一瞬の気の緩みが、怪我に繋がり、時には命さえ危うくします。
瀧修業で命を落とした行者は沢山います。
ですから、荒行は、毎回命がけで臨みます。
実際に死を賭してと云う事は、そうそうありませんが、眼の前死と云うものをぶら下げて、命がけで臨んで行くと、ある種の神秘体験も起り得ます。
特殊な精神状態になるからですが、それも命がけで臨むからです。
また、そこで得たもの、体験や経験から来る悟りが、日常の問題を大した事ではない、命まで取る問題ではないと、心を穏やかに平穏にしてくれます。
武道と同じく、荒行も、命がけで臨んでこそ、掴む事が出来るものでしょうね。
