総括②『シン・ウルトラマン』4DX | アディクトリポート

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総括②『シン・ウルトラマン』4DX

 

まずは、これまでの本ブログ『シン・ウルトラマン』記事にいただいたコメント/感想をここに転載(順不同/重複転載の可能性あり)。

 

ベラデン
(前略)
それに加えてCGのクオリティが余りにチープ過ぎて1800円払った身としてはかなり不満でした。あのチープさは「昭和の着ぐるみ特撮の雰囲気を再現したからだ」との擁護の声が多いですが、私には詭弁としか思えなかったですね(苦笑)
(後略)

jak77 
(前略)
ベラデンさんが感想として述べられていた『チープ』ですが、コロナの影響で制作がかなりドタバタしており公開に何とか間に合わせた感じだったようです、詳しくは「シン・ウルトラマン デザインワークス」をご参照ください(定価¥2200なので文句を言われそう)。

 

 

 

それと飛行しているウルトラマンは当時の飛び人形を意識しており、敢えてチープにした感じです。
ベラデンさんが不満と仰っていた映画料金に関しては割引などがございますので、各映画などの料金表をご覧ください。
一切割引無しの1900円均一ならやむを得ませんが、
私は60歳を過ぎたため、映画は必ず割引料金での鑑賞です。
 
各地のシネコンも過当競争が激しいため、
「6本見たら1本タダ」等の特典等で、とにかくお客様1名がフルの1900円を払うことはもはや当て込んではいないようですね。
 
白井美也子 

見て来ました。自分が、TVシリーズとは世界観・系統が全く異なる作品を受け容れられるかどうかが不安でしたが、結果的にまあまあ大丈夫でした。

これは、オタクがオタクのために作った、二次創作的な作品であり、原作と比較して元ネタを探したり、アレンジの妙を楽しむべきもの。
と、理解すれば、腹も立ちません。二次創作というなら、最近のニュージェネ・シリーズはみんなそんな感じですしね。
元ネタが分かった数を競って、優越感に浸りましょう。例えば、「ゼットンを操るゾーフィ」なんて、私はたまたま知っていましたが、そんなのロートルにしかワカランやろ。黒歴史が50年を経て、ネタに昇華される日が来ようとは、誰が予想したでしょう。そうすると、次作のタイトルはさしずめ『シン・ウルトラエース』だなw
『シン・ウルトラマン』の随所にちりばめられたオタク知識の元ネタに関しては、その理解度に「浅い」「深い」の個人差があり、庵野秀明氏自身でさえが、「ゾーフィがゼットンを操っていた」と誤認識していたそうで、より深い真相にたどり着けるのは、他のどのオタク知識においてもヤマダマサミ氏にとどめを刺すようです。
 
「禍威獣(カイジュウ)」とか、「禍特対(カトクタイ)」の当て字は、ちょっとあり得ないよ、笑っちゃいました。
防衛チームが参謀本部との設定は、リアルっぽくする狙いか、自衛隊に役割を与えるためか。しかし自ら「戦わない」チームでは、感情移入しにくかったです。航空兵力が無いのは、華やかさに欠けますしね。
その象徴が背広スーツ姿での現場出動で、最前線で命がけで戦わされる自衛官らからすれば、不真面目だ!と反発されませんかね。せめて女子はスカートではなく、スラックスにしなさい。放射線防護服はズボンスタイルなのに、スカート巻き上げて履いたのか?
もっとも、浅見さんの性格付けや行動がオッサンで、修羅場に見事に対応していました。そこは逆に、もうちょっとヒロインとしての可憐さが欲しかったです。
これもヤマダマサミさんのブログで初めて知りましたが、浅見弘子(長澤まさみ)が尻を叩くのは、円谷英二のクセを真似たそうです。彼女の可憐さを意図的に制したのは、セクハラ扱いが生々しくなりすぎないようにという配慮もあるのではないでしょうかね。
 
キャストでは、メフィラス人間態(演/山本耕史)がチャーミングで、一番目立っていまいた。名刺を差し出して自己紹介したり、「割り勘」という言葉を使えたり、あんた地球文化に馴染み過ぎや。今年はメフィラスの決め台詞「私の好きな言葉です」が、流行りそう。
山本耕史氏の堂々たる演技っぷりには、私も称賛を惜しみません(※後述)。
宮内國郎作曲のBGM=劇伴音楽も、ザラブまではオリジナルのサントラを使って懐かしさを演出、また、たとえ別作品/リメイクでも同じ世界観を共有しているんだと示していましたが、メフィラスからは鷺巣詩郎(さぎす・しろう)の新曲にチェンジし(『エヴァンゲリオン』シリーズや『シン・ゴジラ』での候補曲から、未使用に終わっていた音楽も使用されている)、ここからは映画の完全新展開だと示されていました。
 
主人公の神永(演/斉藤工)も、ウルトラマンの意思が前面に出た状態を、上手く見せていたと思います。それまでずっと無表情だったのに、最後にUSBメモリを机に置いて、にこっと笑って出て行くところが泣けます。

ウルトラマンと人間の関係は、よく分かりませんでした。最終的に分離はしたのでしょうが、神永がどういう状態か、描かれていないので。
私は個人的には、神永はウルトラマンであった時のことを、忘れないでいてほしい。原作通りに、記憶を失っているとしたら、カトクタイの仲間たちは大変がっかりするでしょう。
それから、ウルトラマンリピアは宇宙のどこかで助かっているのではないかと、希望的観測を持っております。そしてまた地球に来て、神永と一緒に戦ってほしい。分離しても、わりとすぐに再合体になるウルトラマンも、何人もいるじゃないですか。
続編を期待。
リピアは実際には神永との“融合”は行っておらず、斎藤工がなりすました遺体は、森の中に死亡時の状態を保って安置されていました。それが同じ森でゾーフィと初対面の時に、ゼットンと戦えば勝利の目算がないため遺体を安置できかねる可能性を鑑(かんが)みて、リピアは初めて神永との融合を果たします。
ゼットン戦後にゾフィー(リピアの声担当の高橋一生は3度“ゾフィー”と呼び、一度も“ゾーフィ”とは呼ばない)と対話の際には、リピアは生命は神永に譲って、自分の巨体は光の星に帰還させず、地球にとどめたいと主張しています。
これは当然、続編への布石であり、『シン・ウルトラマン』映画企画は当初より三部作計画で、円谷プロの塚越隆行氏はこの決定の頃よりニュージェネ劇場版の松竹配給の終了を決めていたようですね。(『トリガー エピソードZ』はバンダイナムコ配給)
でもって第2部は『シン・帰ってきたウルトラマン=リピア』第3部は『シン・ウルトラセブン』なんだと耳にします。
私が気に入らなかった『シン・ゴジラ』でも一つだけ高評価ポイントがあるとすれば、『ヱヴァ』が長年にわたり何作にも引っ張り続けたのに対し、『シン・ゴジラ』は1作だけで潔(いさぎよ)く切り上げたことでした。それに対して『シン〜マン』は公開まで1年延期されたし、『ヱヴァ』『ゴジラ』『ウルトラ』『仮面ライダー』の庵野シン・ワールド構想まで発表されたので、庵野氏は今後何年も仕事があって安泰ですが、私たち観客は毎度クリエイター上意下達の難解なストーリーにつきあい続け、完全理解には識者のYoutube解説動画の閲覧や、有料のネタバレパンフレットの購入が不可欠って言うのは、ずいぶんとまあ殿様商売だよなと。
 
【その2】
白井美也子
 
その他の感想。
1.ウルトラマン神永が、人間の社会文化を知るために一生懸命、紙の本 を読んでいたのが興味深かったです。画像や電子書籍を見るのではなく。
デスクの前に書物のバリケードを築いて、ものすごいスピードでページをめくっている姿はギャグみたいですが、映像的に分かりやすい見せ方ではあります。
理屈づけとしては一応、人間の神永が、前職の公安警察で機密保持のためにアナログ・データを使用していた経験から、アナログ信奉者であり、その影響が出ているのでしょう。
が、それとは別に、初代ウルトラマンの趣味が「読書」であるというネタ(雑誌設定)を拾っているのかもしれないと、思いました。
初代ウルトラマンの趣味が読書だなんて、私はちいとも知りませんでした。なるほどね。
 
2.色が変わって合図するあれは、色覚異常の人にはどう見えるのか、ちょっと心配になりました。
その点、カラータイマーは色が変わるだけでなく、点滅して音も鳴るため、視聴者には大変分かりやすいです。成田さんがどうおっしゃろうとも、カラータイマーは偉大な発明でした。
子供たちは新ヒーローのウルトラマンに夢中になり、番組全編に出ずっぱりを望みましたが、それでは製作費がかさんでしまうため、出番に時間制限を設ける必要があった。これがカラータイマー設定の所以(ゆえん)だと、確か飯島敏宏氏が何かの番組でおっしゃってましたね。タイマーの代わりに体色変化でエネルギー消耗を表すとき、ザ☆のジョーニアスのタイマー色変化の時みたいに、色変わりの際に効果音を入れればわかりやすかったと思いますけど。
 
3.分かり易さの問題では、偽ウルトラマンの間違い探しは、目がたまご型ではなく、セブンタイプの六角形になっていましたが、年少の視聴者に通じるのかなあ。
そういうとこだけリアルを追求せんでも、原作通りにベタな、ツリ目と反り返った爪先でよかったのでは。
本作は成田さんの本来のデザインに忠実にすることを主眼にしていますから、
悪者だからといって反り返った爪先にするという意図は特に無かったことを反映しようとしたのかもしれませんが、何がなんでも成田スタイルでなくてもよいと思います。
シン・にせウルトラマン(外星人ザラブの擬態)の姿/顔つきについてですが、
「シン・ウルトラファイト」(ツブイマ限定配信)で、
白昼の屋外仮設プロレスリング上で、シンリピア(本物)とシンにせ(偽者)が格闘を繰り広げるのですが、
体の模様が本物の真紅に対し、偽者は朱色と区別されています。
それで私思うに、シン・にせがオリジナルのにせの外見を完全徹底無視したのは、
「あの悪人面じゃあ、どう見たってニセモノだってバレるだろ」
という客観的な判断がまずあったんだろうと思います。
 
しかして若干小ぶりの六角形=角張った目に関しては、
もちろんそういう説を理解納得、支持はしつつも、
もう一つ、別の踏襲例が思い浮かびました。
オープニング主題歌に添えられた影絵風イラストのイメージなのでは?
↓ご判断は読者のあなたに委ねます。
※本推測は私独自のものであり、別のソース=情報源を参考にしたものではありません。
 
JOE
 
ようやく観ました。
どうしても気になるシーンが2つ。
  1. ガボラの光線に対して両手を広げて耐えるウルトラマンが、子供が虚勢を張っているみたいなポーズに見えて格好悪かった事。
  2. 重力場の収縮に巻き込まれたウルトラマンがキリキリ舞いするシーンのウルトラマンが、まるで洋風トイレに流されてクルクル回るゴキブリみたいで、とても観ていられなかった事。
もう一つ、基本的にこれは樋口監督作品であるだと思うのですが、樋口監督が脚本通りに撮影したクライマックスのキスシーンに対し、物語に整合性が取れてない演出だと庵野氏が編集段階でカットしたのは英断だったと思います。
樋口監督の演出の技倆については、『ローレライ』(2005)『日本沈没』(2006)『隠し砦の三悪人』(2008)『シン・ゴジラ』(2016)等を観る限り、役者の演技やセリフ回しにダメ出しは一切なく、とにかく脚本に記された撮影を機械作業的にこなしているだけで、自分なりの創意工夫を盛り込むクリエイティブな余裕なんてとてもなさそうです。
庵野脚本とのコラボで言えば、彼も樋口の手腕をまったく信用しておらず、無数のダメ出しと庵野氏自らの手直しが『シン・ゴジラ』では続いたとか続かなかったとか…。
ただし『シン・ウルトラマン』は庵野氏が『シン・仮面ライダー』に忙しくかかりっきりになれないために、少し距離を置いて客観視もできたのでしょう。キスシーンは脚本に自分で書いたくせに取り下げたのは、ひとえに樋口氏の手腕に問題ありと責任転嫁もできたからですね、きっと。
 
『シン・ウルトラマン』4DX
2022/6/15 ユナイテッドシネマ テラスモール松戸 11スクリーン C−8
 
6/16は新越谷まで用事があったので、それが済んでから4日前の6/12に行ったばかりのテラスモール松戸を再訪。
もはやすっかりやみつきです!
時間が合ったのは、『シン・ウルトラマン』の4DX版だけだった。
nnnn
4DXの効果は抜群で、大作にしては低予算だった本作のショボ目のVFXを見事に補完していた。
2022/06/19
 
↓入場者特典ポストカード/メフィラス名刺
 
そこでここでは、上述のコメント返しでも書き足らず、またこれまでの関連記事にも書かなかったことを述べていきたい。
  • 本編初登場のカイジュウ(禍威獣)や宇宙人(外星人)がネロンガで、ベムラーでも一番人気のバルタン星人でもない理由。ベムラーは地球飛来と人間への融合が映画の本筋とつながらないため省略。バルタン星人エピソードの制作権は、円谷プロ以外に飯島敏宏監督/千束北男脚本にあったために不可能。ネロンガになったのは、パゴス→ネロンガ→ガボラという、眠っていた生物兵器のメフィラスによるリサイクルとは別に、(自分を含む)「ウルトラQ」からリアタイで見続けていた1966年の子供たちの、ウルトラマンと言う光の巨人の本編映像初体験が、1966/7/10の「ウルトラマン前夜祭」での挿入シーンで、その時の対戦怪獣がネロンガだったから。だからカット割りも撮影アングルもオリジナルを意図的に踏襲しているし、Aタイプマンの体色がシルバーの濃淡で無彩色なのは、当時の視聴者はカラーテレビで見ておらず、白黒テレビで見ていた共通体験の再現だから。
  • 面白く鑑賞していた…はずが、ザラブ星人に神永(斎藤工)が車中で眠らされたあたりで寝てしまい、にせウルトラマンの横須賀出現や、神永がウルトラマンと正体がバラされるあたりは4DX版では見ていない。
  • 展開はかったるいが、複数回鑑賞しても感心するのはやはり山本耕史のメフィラスの演技で、いつもこればっかり言って申し訳ないが、『シン・ゴジラ』(2016)の失敗と『シン・ウルトラマン』の成功を大きく分ける要素は「まともな劇映画として成立させている」役者の演技力に尽き、斎藤工も長澤まさみも早見あかりも竹野内豊も山本耕史も(以下略)セリフを完全理解して演技を行っているからドラマがしっかり伝わるが、とにかく滝明久役の有岡大貴だけは、セリフの意味を全く理解できないまま、それっぽく演技のフリを続けているだけなので無性にイライラした。ジャニタレの演技下手では、『累 KASANE』(2018)の横山裕に肩を並べるのではないか。
  • 最後にようやくゾーフィの件だが、ウルトラマン最終回「さらばウルトラマン」の物語は、従来とは型破りな事が矢継ぎ早に展開し、当時の子ども視聴者には混乱を招くばかりで、完全理解に達した人はなかなかいなかった。ビデオのない当時、再放送まで見返せないのは児童誌執筆陣でも同じことで、①ウルトラマンが怪獣に敗れる②その怪獣を人間が(ペンシル爆弾で)あっけなく倒す③この時に限って、何百光年も離れたM78星雲光の国から、ゾフィがたちまち救助にやって来て、④マンとハヤタが分離しても困らないように命を2つ持ってきた——というのは、いくらなんでもあまりにご都合主義ではないかとにわかには本筋が受け入れられず、そこらへんが『シン』での新解釈につながってもいるのだろう。
 
  • でもって、高橋一生の「ゾーフィならぬゾフィー」読みだが、日本語字幕付きの上映では、ゾーフィとなってるそうなので、単に一生氏がウルトラマンの予備知識があり、ゾーフィは台本の誤植だろうと気を利かせただけだと思われる。岡田斗司夫氏は『トップをねらえ!』を参考に、マルチバースで性格の変わったゾフィーと対面したという“邪推”をしてるが、『シン』を鑑賞して「トップ!」との関連に気づく観客なんて、全観客の中でも岡田氏とへライザー総統の2人ぐらいのものだろう。なにしろこの場面のゾーフィは、リピアの「生きたい」と強く願う思念を追ってたどりついたので、性格の変化したマルチバースの並行同位体であるはずなんかないし、単に樋口監督は高橋一生のアフレコ現場に付き添わなかっただけだと思われる。
 
とまあ、今回はこんなところです。