とどめの『AI崩壊』【その3】 | アディクトリポート

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とどめの『AI崩壊』【その3】

 

コツコツとお送りしてきた、『AI崩壊』レビュー(感想集)

 
いよいよ【その3】最終回。
 
※今回はさすがにネタバレ=劇中の内容に触れます。
 
せっかくベラデンさんがオススメ下さったのに、
これまで手厳しかったですが、
結局
  • 鑑賞基準が邦画限定なのか
  • 国際的な基準に照らし合わせているか
だけのことでして。
 
 
この基準で何が変わってくるかというと、
「必須」か「後回し」か、
つまり
「まずは何よりそこから」
なのか
「そこはどうでもいいところ」
なのか、優先順位の逆転現象の部分である。
 
 
 
『AI崩壊』に国際的視点が欠けているのは、
22年目の告白 -私が殺人犯です-』の監督・入江悠によるオリジナル脚本で、
日本を代表するAI研究者への取材などを重ね、20稿に及ぶ改稿が行われた
——ところは、
改稿をまったくしない、
『ナイブズ・アウト』のライアン・ジョンソンに聞かせてやりたいくらいだが、
 
ドラマの参考例が思い切り日本的というか、
伊坂幸太郎チックなんでガッカリした。
 
 
鑑賞中に思ったのは、
「この女の子(大沢たかおと松嶋菜々子の娘、桐生心役の田牧そら)、どこかで見たよな」
田牧 そら(たまき そら、2006・平成18年8月2日生まれ)は、平成・令和時代の日本の子役(女優)でモデル。(2020年は14歳)愛称として「そらら」がある
 
「池中玄太80キロ」の次女、
池中未来(みく)役の有馬加奈子
ありま かなこ、1968年2月19日生まれ(2020年は52歳)
劇団いろは出身、1980年池中玄太80キロシリーズで、3姉妹の二女の池中未来役で出演し注目される。シリーズ途中に引退したため、「池中玄太80キロパート3」は河合美智子が未来役を演じたが、シリーズ最終話の「さよならシリーズ」では一時復帰した。 現在は芸能界を引退している。 
 
——なのでこれは勘違い。
 
いきなりそっくりさん65
有馬加奈子1980=田牧そら2020
 
 
「この娘(田牧そらが演ずる桐生心)が母の写真をなくす状況設定が不自然」
  • 大切な写真をどうやってなくすか
  • 管理体制の整った設備で、総出で探しても見つからない
——等々のすんなり頷けない筋運びは全て、
彼女をAI中枢のサーバールームに閉じ込めるための前フリに過ぎず、
結局写真は見つからなくても、別にそれはかまわない=どうでもいい扱い。
だったらそもそもなんで、あんなにみんなで必死に探したの?
 
 
「なぜ鏡を持っている?」
 
『AI崩壊』の作劇上の不具合は、
なんでもできて全ての問題を解決しそうな主人公、
大沢たかおが演じる桐生浩介が万能すぎて、
「どうせこの人が問題を解決するんでしょ」と見透かせてしまい、
危機的状況の連続にもハラハラしないって言うのもあるが、
 
緊迫感を増すために試練に遭う娘の「心」(←名前)の状況設定がひどすぎる。
 
先述の「母の写真をなくす」もそうだが、
2030年ならデジタルデータもあるだろうに、なぜ紙焼き写真探しに奔走するのか。
 
そしてAI中枢に閉じ込められた彼女は、
事態打開につながる鏡を、どうして都合良く取りだしていたのか。
 
 
このご都合主義な状況設定に、
「鏡がなかったらどうなってたの?」と呆れ、
これはたしか前にも思ったよなと、
『ゴールデンスランバー』(2010)を思い出してしまった。
ふりむき
 
主人公の青柳雅春 (堺雅人)が、事件から数年後にひそかに大学時代の恋人、樋口晴子(ひぐち はるこ=竹内結子)に会いに行く。
ゆうこ
晴子は今は別の男性と結婚し、七美という4歳の娘がいて、七美は青柳とは知らずに、胸にぶら下げていた「たいへんよくできました」のスタンプを彼に押してあげる。
 
????????
 
女の子が、スタンプを持っていたのは、
話にオチをつけるためだけ。
 
他になぜその時それを持っていたかに、これといった理由が見あたらない。
 
↓(過去記事転載)
オチの「たいへんよくできました」は、あの子が首から大型スタンプをぶら下げていなければ成立しない。
だけど、あの場面であの子が、よりによってこのスタンプを持ちあわせているのは全くの偶然。
 
 
『AI崩壊』の女の子の、写真のくだりも、鏡のくだりもまったく同じで、
筋運びの都合でそうなっているだけで、
どうしてそこでその時そうなっているのか、
観客が納得できる理由がない。
 
おそらく監督の入江悠氏の脚本がそうなっているのは、
伊坂幸太郎という作家の『ゴールデンスランバー』でもそうだから、
まともな手法だと勘違いしているんでは?
 
いわば、「これで通用してるんだから、いいじゃないか」という「甘えの構造」。
 
伊坂作品は
『陽気なギャングが地球を回す』(2006)
がyんぐ
よくもまあ、こんなクソつまらない物語を書いて、作家でございなんてほざけるもんだと、ひたすら呆れ、なんでこんな原作を元に映画を作ろうとしたのか、映画関係者の見識も疑った。
粋なつもりで演じてる役者が、ことごとくサマにならない陳腐な作品。
『シムソンズ』(2006)で輝いていた加藤ローサのムダ使いにもガッカリした。
この1本でも、伊坂に作家としての才能がないのはわかりそうなものなのに……。
 
『アヒルと鴨のコインロッカー』(2006)
かも
アパートに引っ越して来た濱田岳が、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさんでいなければ、その後の物語が展開しないという、しょっぱなからかなりムリな展開。
瑛太は風貌も話し方もブータン人になんか見えないし、とにかく自分が思いついた話に、なにもかもを強引に隷属させる伊坂の独善にあきれまくり、題名の珍妙さにもそれが表れていると強く感じた。
 
『Sweet Rain 死神の精度』(2008)
死に神の精度
私情にさいなまれて本来の仕事をしくじるマヌケな死神の話に、「こんなんだったら死神なんかいらないじゃん」としか思えず、このキャラの存在意義も、いったい何のためにこの話を展開したのかも、さっぱり理解できない。
 
『重力ピエロ』(2009)
ぴえろ
「殺されて当然の極悪非道な人間は、殺したってかまわない」という、危険で短絡的な自分の言い分を正当化するためだけに延々と費やされる、超ご都合主義な物語と、それを象徴するように回りくどくも相変わらず強引な「重力ピエロ」という題名。
ギャグなのかと思ったら、本人はシリアスドラマのつもりらしく、映画スタッフももちろん、読者や観客にもそう思い込む人たちがけっこういることが驚きだ。
 
『ゴールデンスランバー』(2010)
やってない
作家も成長しますから、最新作「ゴールデンスランバー」は周囲の評判も悪くなく、今度こそはもしかしたら、と少しは期待したのですが……やはり期待した私がバカでした。
 
——と、全作が凡作駄作。
 
近年は伊坂原作の映画はすっかり鳴りを潜めたが、
なぜもっと早く、奴の駄作性に気づかない?
 
そういや伊坂幸太郎同様に、
私がまったく才能を見いだせない三谷幸喜について、
「彼の映画には必ず元ネタ作品がある」
と指摘する人がいて「なるほど」
 
【引用例一覧】
『12人の優しい日本人』(1991)→『十二人の怒れる男』(1957)
『ラヂオの時間』(1997)→『ブロードウェイと銃弾』(1994)
『THE 有頂天ホテル』(2006)→『グランド・ホテル』(1932)+『有頂天時代』(1936)
uchoutenn
『ザ・マジックアワー』(2008)→『ポケット一杯の幸福』(1961)他多数
majikku
『ステキな金縛り』(2011)→『オー!ゴッド』(1977)
『清須会議』(2013)→『十二人の怒れる男』(1957)
ぎゃら
『記憶にございません!』(2019)→『デーヴ』(1993)
 
 
自作オリジナルではなく、
他作品からアイディア拝借で、
しかも「コメディですから」を免罪符に1作もオリジナルを超えられないのに、
作家、脚本家、映画監督がつとまったと勘違いしていて、
しかも世間も同様にそう認知しているから、
またNHK大河の脚本を手がけるらしい。
 
悲しいね。
 
というわけで、『AI崩壊』はせっかく世界レベルで通用する可能性があったのに、
邦画レベル、邦画基準で万事を考えたために、
とても国際市場に通用しないシロモノに仕上がってしまった、
残念作に思われてならない。
 
 
邦画にそこまで厳しくあたらんでも…
というご意見も頷けますが、
観客は同じ料金を払うので、選ぶ権利がありますし。
 
 
今ならホント、IMAX上映の『1917 命をかけた伝令』をオススメしますよ。