3人目は菩岐岐美郎女(ホキキミノイラツメ)です。
他の奥さんが天皇の血筋や超有力豪族なのに対して、最も身分の低い方です。
父は膳傾子(カシワデノカタブコ)です。
膳氏というのは朝廷で食関連の仕事を任されていて、斑鳩を本拠地にする氏族でした。
そう、斑鳩といえば晩年聖徳太子が住んでいた場所です。
一夫多妻制で、夫が妻の家に行く通い婚スタイルの当時、近くに住むことはかなり大きな事です。
まず、菩岐岐美郎女との出会いからして特殊です。
普通「うちの娘を是非嫁に…」なんて相談があって縁談が成立するものかと思いますが、菩岐岐美郎女はなんと聖徳太子が斑鳩に行った時、芹(せり)を摘んでいる少女に一目惚れし、その少女を娶ったという逸話があります。
もちろんその少女は菩岐岐美郎女だったのです。
よって彼女には芹摘姫という別名があります。
聖徳太子の奥さんの中で最も身分が低いながら最も子が多く、晩年を太子の側で過ごし、病に伏せった太子を看病し、太子と同日もしくは1日違いで亡くなり、生母の穴穂部間人媛と聖徳太子と同じ墓に入った人でした。
最も寵愛を受けた方だったようです。
最後は橘大郎女(タチバナノオオイラツメ)です。
彼女は推古天皇の孫にあたります。
菟道貝蛸皇女が子を成しませんでしたから、推古天皇は孫娘まで差し出しました。
つまりは叔母の孫。
聖徳太子と橘大郎女は20歳以上の年の差婚だと思われます。
推古天皇念願の聖徳太子の子は2人授かりましたが、橘大郎女はきっと面白くなかったでしょう。
身分的には申し分なく、正妻クラスでありながら、寵愛を受けるのは菩岐岐美郎女ばかり。
しかも死後も同じ墓に埋葬され、生前も死後も太子の最も側にいるのは菩岐岐美郎女。
そこで橘大郎女は聖徳太子の死後、祖母である推古天皇に頼み、太子が死後に行かれる天国の様子を刺繍にしたいと申し出ました。
それがかの有名な日本最古の刺繍「天寿国繍帳」です。国宝に指定されています。(現在は大部分が焼失してしまいましたが、中宮寺でレプリカが見られます!)
天寿国繍帳を残し、橘大郎女は聖徳太子の妻として後世に大きな印象を残しました。
(実際に私が日本史選択で大学受験の際に名前が出てきたのは、「天寿国繍帳の橘大郎女」のみでした笑)
どうですか?
家系図から歴史上の人物の想いが見えてきませんか?
以後、こんな感じでいきます笑。
他の奥さんが天皇の血筋や超有力豪族なのに対して、最も身分の低い方です。
父は膳傾子(カシワデノカタブコ)です。
膳氏というのは朝廷で食関連の仕事を任されていて、斑鳩を本拠地にする氏族でした。
そう、斑鳩といえば晩年聖徳太子が住んでいた場所です。
一夫多妻制で、夫が妻の家に行く通い婚スタイルの当時、近くに住むことはかなり大きな事です。
まず、菩岐岐美郎女との出会いからして特殊です。
普通「うちの娘を是非嫁に…」なんて相談があって縁談が成立するものかと思いますが、菩岐岐美郎女はなんと聖徳太子が斑鳩に行った時、芹(せり)を摘んでいる少女に一目惚れし、その少女を娶ったという逸話があります。
もちろんその少女は菩岐岐美郎女だったのです。
よって彼女には芹摘姫という別名があります。
聖徳太子の奥さんの中で最も身分が低いながら最も子が多く、晩年を太子の側で過ごし、病に伏せった太子を看病し、太子と同日もしくは1日違いで亡くなり、生母の穴穂部間人媛と聖徳太子と同じ墓に入った人でした。
最も寵愛を受けた方だったようです。
最後は橘大郎女(タチバナノオオイラツメ)です。
彼女は推古天皇の孫にあたります。
菟道貝蛸皇女が子を成しませんでしたから、推古天皇は孫娘まで差し出しました。
つまりは叔母の孫。
聖徳太子と橘大郎女は20歳以上の年の差婚だと思われます。
推古天皇念願の聖徳太子の子は2人授かりましたが、橘大郎女はきっと面白くなかったでしょう。
身分的には申し分なく、正妻クラスでありながら、寵愛を受けるのは菩岐岐美郎女ばかり。
しかも死後も同じ墓に埋葬され、生前も死後も太子の最も側にいるのは菩岐岐美郎女。
そこで橘大郎女は聖徳太子の死後、祖母である推古天皇に頼み、太子が死後に行かれる天国の様子を刺繍にしたいと申し出ました。
それがかの有名な日本最古の刺繍「天寿国繍帳」です。国宝に指定されています。(現在は大部分が焼失してしまいましたが、中宮寺でレプリカが見られます!)
天寿国繍帳を残し、橘大郎女は聖徳太子の妻として後世に大きな印象を残しました。
(実際に私が日本史選択で大学受験の際に名前が出てきたのは、「天寿国繍帳の橘大郎女」のみでした笑)
どうですか?
家系図から歴史上の人物の想いが見えてきませんか?
以後、こんな感じでいきます笑。