「萌え」の起源 手塚治虫と異形のヒロイン | ただのオタクと思うなよ

「萌え」の起源 手塚治虫と異形のヒロイン


「萌え」はオタクの専売にあらず

 自称オタク系ライターを名乗っていると、行く先々でよく聞かれるのが「萌えって、どういうことなんですか」という質問。いや、こっちが聞きたいくらいですよ。何でいつからか「オタク=萌え」なんていう等式ができあがってしまってしまったのかと。

 私自身、こういう解説記事などで使用する以外、「萌え~」なんて言葉、自発的に使ったことありませんし。そんなこと、気にもとめずにオタク道を地道に進んできたつもりです。ただ、単純な異性に対する恋愛感情や、小さい子供を「かわいい」と感じるのとは微妙に違う“愛玩感情”というものを感じることはあってそれが「萌え」という形容詞となって、おそらくはオタク系の雑誌メディアなどで使い出したのが、この「オタク=萌え」という構図なのだろうということは理解できます。

 この、なかなか表現しがたい“愛玩感情”とは、ペットをかわいがることにも近いかもしれませんが、どちらかというと人間や生物ではなく、漫画やアニメのキャラクター、人形でも人間らしさをそぎ落としたデフォルメフィギュアに対する愛情です。もちろん、それらと肉体的に結ばれることなどなく「萌え」ている側の当人もそれは百も承知のこと。おそらくフィギュアなどに「萌える」彼ら(いや私自身も含めて)の最終目標は何かというと、別に何も何のだと思います。私自身そうですから。要は、自分も周り、部屋の本棚とか机の上とか携帯ストラップのような身の回り品に忍ぶ形で取り囲まれていればそれで満足なんです。たぶん、それらが少しでも多く自分を囲んでいる状況こそが「萌え」なのです。

 ではこうした「萌え」の文化はいったいどこから来たのか。それを考察するのが本日紹介する一冊「「萌え」の起源」です。

 自ら手塚治虫の熱烈なファンと語る著者は、手塚漫画に度々登場する「異形なヒロイン」に、萌えの素が潜んでいると着眼します。単なる美人のヒロインではなく、男装で活躍する「リボンの騎士」のサファイヤや、「バンパイア」に登場するオオカミ女で人間に変身する岩根山ルリ子など。さらに鉄腕アトムにも手塚自らの考え方を引用し、「異形なヒロイン」の要素が詰まっていると指摘します。この、女のようで女でない、でも汎用的な可愛らしさを持っている存在を率直に「愛せる」感情は日本人独特なものであると指摘します。

 典型的な例として、野球選手にとっては大事なものであるはずのバットを足でまたぐことに対する日本人メジャーリーガーが抱く感情と、アメリカの選手の無頓着さの違いを挙げています。ロボットが壊れちゃったことに涙を流せるか、平然と「新しいのを作ればいい」と言ってのけるかの違いとも言えましょうか。おそらくこれが「萌え」の壁なのではないかというのがこの筆者の理屈であり、オタクである私としては大いに共感するところです。

 いや、これはオタクだからというのとは違うのでしょう。日本人独特の感情、いや、西洋文明で育った人間でも決して理解できないことではない普遍的なものではあると思います。単にそのことに気づける機会が、日本の伝統文化下での方が多いというだけかもしれません。

 「萌え」の起源を辿ろうという表題ながら、いつの間にか「日本人論」に入り込んでいく後半部分は、しっかり腰を据えて読み進めないと焦点がぶれてしまう内容になっているのが玉に瑕の一冊ではありますが、日本人が生み出す世界にもまれなキャラクターたちの存在理由にユニークな視点を当てている話は一読の価値ありです。共感するしないはまた別の話ですが。

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