渡辺 穣二 の『組織は「人」、されど評価は「仕事基準」』

旧ソ連、アジア、アフリカ、日本国内でコンサルティングをしています。「人基準」「仕事基準」と言う概念の圧倒的な力、それが、組織経営において、どのように役立つかを、少しづつアップします。http://iedi.org/across/ 


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母校;大阪大学の東京支部の同窓会「大阪大学の集い」が、2013年12月5日(木曜日)に東京の神保町「学士会館」で開催された。

平野俊夫総長を初め、同窓会連合会熊谷信昭会長、NHK国際放送局 World News部榎原美樹副部長、総合司会をされた山之内重美様、さらに事務作業、調整に苦心をされたスタッフの方々、ありがとうございました。

交流会では、阪大工学部の先輩の方々もおられたので、2011年3.11の東北大地震と原発事故を反省材料として「日本の変革方法」について、
何人かの方々と話をさせていただいた。

そこでの議論から、日本の最大のリスク要因は、政治ではないかということが、多くの方々と共感できる気がするので、以下、その改善方法として選挙制度を提案してみたい。

実際のところ、現在の社会で政治家になる動機は、どこにあるのだろうか。

政治家は、その責任の大きさに比して、ことさらに収入の高い職業ではない。

メディアなどで活躍できれば、別であるが、政治家は良い仕事をしても収入が、上がるわけではない。

選挙にどれだけ時間(お金も)をかけても、本当に選ばれるか、どうか、特に最初に立候補する人材にとっては、たいへんなリスクである。

やはり、公に対する責任という政治家の仕事そのものへの意欲と問題意識からくるものだろうと思う。

そのような条件下で、これから政治家に立候補しようとする人材は、政治を家業とする2世、3世でないかぎり、名誉は求めても、物欲の少ない、穏やかな人物であろう。

一方、私が提案する「勝ち抜き熟議選挙」が、政治家に求める人物像は、経済社会にあっても、リーダーとして高い適性のある人物である。

経済のエンジンである民間セクターやマネジメントを体験しており、日本の産業・経済を発展させる政策・実務に明るく、人間的にも優れ、日本の歴史や文化、国際問題にも理解のある人物である。

私の提案する選挙制度は、

熟議民主主義(Deliberative Democracy)
の概念を国政・地方選挙と組み合わせるものである。


「人基準」対「仕事基準」での考え方で言うと、これまでの選挙は、「人」を選ぶからうまくいかない。(仮に「人」を選ぶとしても、殆どの有権者は、個人として立候補者を知らないのだから、「人基準」としても、不十分だ。)

この提案は、有権者が、「政策」とか政治家に求めたい「仕事」を立候補者の実績と主張から選ぶという「仕事基準」選挙にすべきという考えである。

私たち有権者は、現在、政治家に英雄を求めているわけでも、美人を求めているわけでもなく、「立派な仕事」を求めているのである。

そして、誰が何と言おうと、政治家は、国をゆるがすような大災害に際しても、国家防衛上の危機にも、日本のリーダーである。

1990年代のバブル崩壊前まで、評論家が、日本は「経済一流、政治三流」などと言っていたが、現在の国家債務の大きさ、日本列島の火山活動の活発化、そして、近隣諸国の動きをみても、日本の置かれた状況は、冗談では済ませられない。

では、日本最大のリスク要因の一つ、政治を変革するには、どうすれば良いかということであるが・・。

現状の選挙では、「人」を選ぶ「人基準」選挙なので選ばれた「人」は、手続きさえ踏めば、公約を変え、守らず、数を頼りに立法することもできる。有権者は、国会における選挙結果として与野党のバランスまで制御することができないからだ。

しかし、「仕事基準」選挙では、そういうことはできにくい。

有権者が、「政策や仕事」を立候補者とともに熟議し、政治家が当選したときには、「政策と仕事」を選んでいるからである。

さらに、熟議民主主義を基礎とすべきというのは、私が、アジア、旧ソ連やアフリカでの国家の長期戦略の立案、事業再生、経営改善のために実施した関係者(大臣、次官、企業の役員、NPO女性リーダーとか、大学教授、さらには、課題意識の高い一般の人々)を集めてのワークショップが、顕著な効果をもたらした経験から来ている。

つまり、政策や経営の成功には、熟議のプロセスが不可欠なのである。
この熟議は、各課題に対して、数人の小グループでの議論(課題の理解→行動計画立案)、そして、最後に、全体の数十人でのグループでの発表会(発表と質疑応答、議論)を、定期的に繰り返すことである。

簡単に言えば、小さな会議と大きな会議を組み合わせて、繰り返すことである。

私の提案は、「勝ち抜き熟議選挙」で、これは、有権者らが、各30人で多くの会議を行い、現状、課題、政策、政治家の望ましい能力や経験を議論し、各会議で参加者の中から、最終選挙人候補者と政治家候補を計3名選ぶ方法である。

政治家に立候補したい人は、選挙管理委員会に、名前、年齢、性別、学歴、
自分の実務力を示す仕事の経験・資格、提案する政策などを提出するが、有権者全員に配布される立候補者情報には、「人基準」情報である
立候補者の名前も性別も年齢も学歴も開示されていない。

有権者全員に配布される立候補者情報には、名前の代わりに立候補者番号に加えて、「仕事基準」情報である
自分の実務力を示す仕事の経験・資格、提案する政策
が与えられているだけである。

人基準」情報である
名前、年齢、性別、学歴、出身などの情報は、30人づつで開催される各会議で開示される。(この会議も、「小さな会議」と「大きな会議」を組み合わせる。)

選挙管理委員会は、立候補希望者からの情報を裏どり、再確認すると同時に、面接して、内容がイメージだけの文字の羅列でないことを確認する。(例えば、女性の社会進出を促進するなどと言っても、具体的行動計画がなければ、ダメである。これまでの選挙では、単なるイメージの羅列とか、当選してから、留学情報などでウソがばれる場合があったが、選挙そのものの公正性、効率性に問題である。)

選挙管理委員会で意思決定を行う最終責任者は、各地域の人ではなく、他の地域から選ばれた専門性のある人物、政治学、経営学などの専門家である。

その地域全体の有権者にとり、
不偏不党で
意思決定するには、「外人効果」を使わなければならないからだ。

各会議で、最初に提供されるプレゼンテーション資料「現状と課題」
にまとめるのは、意識の高い市民や大学院政治政策学科や経営学科などの大学院生などを雇用する選挙管理委員会である。

この
プレゼンテーション資料は、極めて大きな意義がある。

と言うのは、現状の選挙では、各立候補者が、勝手な課題を羅列するだけで、有権者は、「リンゴ」と「オレンジ」ならまだしも、「リンゴ」と「チョコレート」とか、場合によっては、「リンゴ」と「海」を比べているようなものだから、論理的には、選択できない選挙になっているからである。

このプレゼンテーション資料があることで、ある程度、共通の課題基盤に有権者全員が立ち、立候補者の主張を比較できるのである。

この会議の司会は、ファシリテーショントレーニングを受けた市役所職員、市民とか大学院生の正副2名である。

各会議でのプログラムは、概要、以下のようなものになる。

1.現状と課題(プレゼンテーションの後、参加者からも意見が出され、課題が追加されることもある。)

2.全立候補者情報の確認と、30名の参加者の中での最終選挙人候補と政治家立候補者の確認(具体的に誰かが発表され、彼らの個人情報も配布される。)

3.提示された現状と課題を解決するための政策や行動計画の議論

4.政治家に求められる能力や経験、リーダーとしての政治家像・資質の議論

5.最終選挙人候補者と政治家立候補者によるスピーチ

6.投票(最終的に半分以上を獲得する人が、政治家
立候補者や最終選挙人候補者として選ばれる。
獲得票数の小さな人から立候補をとりやめ、次回投票で投票者になる。)

7.当選者は、再度、参加者全員から、希望する政策や仕事内容を受け取る。

第一段階で選ばれた人材は、第二段階に行くことができ、選ばれた者同士、各30人で議論し、計3人の最終選挙人候補か政治家立候補者
を決める。

こうすると、1万人が首長に立候補しても、3段階(場所さえ確保できれば3日)で1人決められる。(最初の段階で、1000人になり、次に100人になる。すると、3回目の100人の大会議で1人選べる。)

実際には、数百、数千の会議を、一日で行うことはできないので、何か月間か、町中、あちこちで会議が起こり、レストラン、自治会館などが、一日中いっぱいになる。

この選挙で、参加者皆が真剣になるのは、自分が参加したグループが選んだ人が、最終的に政治家に選ばれたら、グループ構成員全部が、任期中、アドバイザーとしての権利が生じるからだ。(第二段階以降の参加者が、アドバイザーとなるとともに、評価者としてモニタリングする。評価会議は、例えば、半年に一回とする。)

また、アドバイザーの4分の3以上が、政治家の任期中に駄目出しすると、政治家(首長とか議員)は、退任させられる。

(このアドバイザー・グループをBoard of Snipersと呼び、任期途中の政治家を言葉の上だけだが「狙撃」できる。つまり、退任させることができる。

Snipers狙撃兵の名前は、過激に思われるだろう。しかし、人は結局命に関わるくらいでないと、継続して本当には真剣にはならない。

例えば、アジアのある大統領は、ルーマニアのチャウチェスク大統領夫妻が、1989年に公開処刑されたことを見て、平和裏に職を辞すことを妻から助言され、そのようにしたと聞く。

(チャウチェスクは、1967年から処刑の日まで国家元首として、かつては国民から熱い支持を受け、後には、「反ソ連の一匹狼」として西側主要国からも称賛を浴びた人物である。)

成功はすばらしい。

しかし、成功体験を重ね、大きな権力を長期に持っていると、必ず堕落が始まる。

この問題の本質は、政治家のスキャンダルを伝えるメディアや、一般の認識とは異なり、その人物(生い立ちから来る個人の強欲性とか)ではないのだ。

何年も長く政治に係っていると、取り巻く人々が、その権力から利益を得ようと集まり、政治家を褒め称え、権力構造から自分も利益を得ようとするようになる。

そして、その人物が権力を掌握していればいるほど、取り巻きの人々の数も欲望も大きくなる。

「私にも、私にも。」「もっと、もっと。」と言うわけだ。

発展途上国ならずとも、何期もの当選を重ねた先進諸国の政治家たちを見てもわかるだろう。
そして、国家元首ともなれば、心の奥で「こんなに大きな支持を得たのは、歴史的に私だけであり、私でなければ・・、人々を満足させることなどできない。」と思い込むようになる。と言うのは、政治家の周りには、ともすると、権力にすがる人々と企業組織ばかりになるからだ。

熟議をした支持者の一人として、政治家への暖かな気持ちを持ちながらも、政治家の倫理性と貢献度を常にチェックする多数の狙撃兵の存在が、政治家に堕落を許さないのである。

各グループで選挙人と立候補者の計3名が、決定された後は、各集会は、音楽会や飲み会となり地域の「文化祭」をする。

これにより、日本が文化的にさらに高みに上がるだろう。

選挙の度に半日以上も真剣に地域の課題を理解し議論する中で各地域でコミュニティも形成される。日本人は、世界一の知識レベル、倫理観においても最高であり、日本人だからこそ、こういうことが効率良くできるのだろう。

30人による大議論を1回でも勝ち抜くには、有名とか、美人とか、握手が得意の単なる愛想よしでは、選ばれない。

そもそも、「仕事基準」選挙であるから、売名行為は、一切、禁止されているのだ。

真剣勝負の熟議会議であり、競争心も出て、皆が努力するようになる。

どんな人物でも一回でも勝ち抜くことは、1割に残ることであり、たいへんな名誉なのだ。

二段階勝ち抜けば、100分の1; 1%に残ったことになる。

だいたいこのレベルで、地域の問題解決に資することのできる立派な課題認識や公共精神の高いリーダーを選んでいることになるだろう。

お父さんやお母さんが、一回でも選ばれたら、子供は立派だなあと感心する。
小中学校の先生は、最終選挙人候補に選ばれたら、クラスで、こういう議論だったと発表する。

だから、皆が主張内容で頑張るようになる。なんとなく競争心からモーティべーションが上がる一方で、愉快で楽しみのあるそういう選挙だ。

ただし、街でのチラシ配布も演説も、金と時間がかかる売名行為のための選挙運動は、一切禁止となる。

仕事を辞めて、選挙運動のための駅前演説も、禁止が望ましい。

駅立ち演説しても、有権者はちらっと見る程度で、多くは10秒も聞いていない。そんな程度の情報で仕事を理解できるわけがないという考え方である。

チラシを受け取っても、殆どその内容は、イメージだけで、政策についての深い議論はない。問題の一つは、チラシは、自己宣伝や甘言が中心で、有権者に受けない暗い嫌な話を避け、有権者を啓蒙していないことである。

実際、2,3名の立候補者による提案項目で、選択肢が決められるほど、現在の社会は、単純ではない。

例えば、明治初期や戦後間もない時代のように、何も無い頃には、建物を作るか、作らないかの2者択一もあったろう。

しかし、現在は、技術は高度化し、専門性は、分化し、仮に市庁舎を建設すると言っても、従来の市庁舎の耐震設計をどうするのか。空き建物の多い時代だから、賃貸の可能性やバリューエンジニアリング(VE)などを行い、設計の選択肢も含めたら、10や20の選択肢がなければならない。

つまり、現状の選挙制度は、現代社会や技術の進展に対して、陳腐化しているのだ。

また、原発事故後の原発廃止か、継続かという政策上の議論では、廃止と継続は、言葉の上では、有権者には、全く逆の政策のように聞こえる。

しかし、原発廃止の立候補者も、電気不足の場合には、近隣住民の理解を得ながら、安全対策を徹底した上で原発操業という意見であったりする。つまり、色々想定できるケースと時間軸を横にとれば、原発継続の立候補者と全く同じであったりする。

換言すれば、現在の選挙の方法では、短い言葉をたよりに選ぶため、どこまで有権者の理解があって投票行動につながっているか、分からないのだ。

騒音の名前連呼もビラ配りも、握手も同様、本来必要な情報量がない。

政策を本当には理解できない
結果、有権者は、手当を月?万円とか、甘言を頼りに、投票してきた。その結果が、世界に恥ずかしいような莫大な国家債務である。人類史上稀にみる日本の国家債務は、投票権のない若者層とこれから生まれる世代を担保に借金をつけ回し、我々有権者どうしが癒着をして、法外な大パーティをしてきたということに他ならない。)

つまり、現状の選挙制度の中では、殆どの有権者は本当に政治や政策を議論していない。殆ど何もわからずに選挙権があるから、立候補者が若くハンサムとか、年配者で信頼できそうな顔とか、その時の気分、さらに政党名で選挙しているに過ぎない。

中には、大企業などに属していて、社員全員がある党を特別にサポートする場合もある。

しかし、私の経験では、

「利益を追求する組織よりも、独立した個人の集合体の方が、丁寧な議論を経れば、社会を健全化するための正しい判断をする。」
のである。

これまで、どれほど、多くの政治家が、政党の枠をはめられ、選挙での支援や資金補助がもらえるとの理由で、自分の意見を曲げてきただろうか。

自分が勤める企業のサービスが、ある顧客には不適当と思っていても、自社サービスを売り込むのが、多くの組織人である。

組織に属していれば、その組織の意向で、本来あるべき個人としての意見を変えることが、しばしばである。

メディア(特に民法TV、タブロイド判の新聞、週刊誌など)は、売上のため、視聴率や購読者数を経営目的とし、期せずして品位を落としたり、必要以上に政治家のプライバシーを掘り起し、無用に評価を上下する傾向にある。

メディアが、「人基準」思考で、政治家の誤った情報をも含めて、個人生活の問題までをも報道し、政治家としてのキャリアを失わせることさえある。

現在の日本には、有権者が選んだ以上、政治家は尊重し扱わなければいけないという共通の理解がないからだ。そのことは、政治家にとっても不幸であるが、実際のところ、日本全体、世界全体が、長期的には、損をしているのではないかと思う。

つまり、選挙の方法が・・・不十分で? → 質の良くない政治家も? → 政治家は、尊敬に価しない? → 

そして、政治家は自己弁護に追われ、本来の政治活動ができない。

国会議員が、党利党略を含め、互いに追求する姿勢を、国民は、よくやっていると喜んではいけない。

それは、国会でもメディアの報道でも無駄な労力が費やされ、我々国民は、その時間も経費を支払っているのである。

国会議員も地方議員も、メディアも「意地悪っ子大会」をやめて、有権者のための仕事に集中すべきだ。

メディアの経営方針にもよるが、彼らは、売れる情報を配信すれば、組織内で評価される傾向にある。

例えば、編集者は、情報のタイトルの付け方が極端でも、購読者が増加する方を選ぶこともあるだろう。

そのため、「勝ち抜き熟議選挙」では、参加者は、できるだけメディア情報ではなく、目の前の人々との議論を経て、各々が、独立した自分の判断で目の前の人物を選ぶ。

このような会議形式での選挙が選択されてこなかった理由の一つは、小さなグループでは、何らかの賄賂、互恵取引の可能性を排除することができないと考えられたからではないかと思われる。

例えば、スーパーの経営者が、立候補して、ディスカウントセールスを行うなどである。

この熟議選挙に参加するためには、全員が、倫理規定を理解し、署名が必要となる。

仮に、賄賂授受や互恵取引がなされた場合、グループ内の全票が無効となると同時に、全構成員に対して罰金。加えて、その後3回の選挙で選挙権を行使できないなどの罰則を決めるとよいだろう。

様々の混乱や問題があったとしても、知的能力と倫理性において、
世界の最高レベルにある日本の有権者(一般の実務家)が真剣に議論すれば、結果は、自ずと明らかではないかと思う。

(実務とは、顧客や市場を相手にしている仕事で、サービス、営業、技術、販売、経営管理、他には現場での様々の仕事を指す。)

かつて日本は、経済一流、政治三流と言われてきたが、選挙制度を「仕事基準」にすれば、政治一流と言われるようになる日は夢ではない。

また、従来、政治家が選挙で大きな金を使うため、政治家としての任期中、その回収で様々の組織と有権者には見えていない取引をするので、政治が暗くなってきた。

(私の経験では; ある県で得票数最多という若手スターを自認する政治家が、公共工事で多額の選挙資金を回収したいと依頼してきたことがあるが、私は、愕然とし、憤慨もした。しかし、よく考えてみれば、彼が悪いのではなく、これが、有権者には見えない日本の選挙制度の裏の現実である。)

この選挙では、経費は、会議に出るだけの食費くらいだから、誰にとっても1回の会議が2千円以内となる。

会議後のアルコールを入れても3-5千円。地域のレストランは、皆、大張りきりで大サービスするだろう。

「それほど興味がなくて、1千円も出せない。」という人はどうするか? 

選挙に参加しなければよい。

政治家には、「美人が好きだとか、握手をしたから。」などという有権者も同様である。

つまり、「勝ち抜き熟議選挙」は、真剣に日本の将来を議論する有権者が、政治家として本当に優れた政策と人物を選ぶ選挙だから、選挙の投票率、有権者の参加率などの数値は、重要な指標ではない。

「量」ではなく、「質(正しさと納得性)」を取るからだ。

「量(投票率)」ばかりを追う組織は問題を起こし、「質」を追求する組織は長期に栄えるというから、経営理論上も、正しい選挙である。

日本では、多分、人口の90%以上を占める実務派、実務経験人材が、世界最高のレベルにあるから、非常に高いレベルの選挙になるだろう。

日頃忙しい実務派の立候補者にも、立候補は、休日を返上する程度で、大きな苦労はない。この選挙制度では、仕事を辞めて選挙運動をすることさえ、禁止されている。

政治を家業化する2世、3世が、立候補しても、グループでその弊害を指摘する意見がで
れば、選ばれないだろう。

しかし、本当に経歴、実績において、立派な人物なら選ばれる。

つまり、ここには、政治家、社会のりーダーとしての実力の勝負がある。

現役の政治家は、どうするか。

彼らは、有権者から学ぶため、最初の段階から勝ち抜き熟議選挙に参加もできるが、政治の継続性を担保する意味でも、最終会議にも立候補者として出ることを許されてしかるべきだろう。

多くの市民が政策の議論に参加しているので、皆が選挙の最終結果に興味を持つ。

最終会議は、インターネットで配信してオープンにする。

「勝ち抜き熟議選挙」のメリットをまとめると;

一般のサラリーマンの視点から言えば、

1.組織が人材の昇進・採用をする場合と同じことであり、人を見る目などの経験が生かされる。

他には、

2.有権者皆に現状の課題や政策に対して参加意識(Ownership)ができる。

3.選挙人や立候補者を通して、有権者一人一人が希望や苦言を出せる。

(ガス抜きも含めて精神的に良い。)

4.地域は、祭気分となり多くのレストラン、集会所が使われ、経済的効果がある。

5.会議を通して役所職員、有識者や市民の相互理解の機会となる。

6.世代や職種を超えて、市民同士が互いに学び合う地域コミュニティの形成につながる。

7.選挙がある毎に、手法を改善することができる。

(一部の急進的な人材ばかりが集まらないようにするとか、地域の分け方、グループの作り方、議論の手法においても、カイゼンを起こす。

選ばれた政治家に対して、適切に専門的な観点から情報を上げる(アドバイスする)方法をも工夫する価値があろう。

例えば、「私は、アメリカインディアンのように、誰からも意見がでなくなるまで議論する方法が良い。」と言う人達が30人いれば、そのような人たちばかりを集めて、18時の夕食から夜を徹して、議論する方法もよいかも知れない。核家族化の進んだ中で育った若い世代にとっては、現代社会や近代の歴史の勉強の機会になるだろう。最後の投票だけは、シラフの状態でという規則を決めれば、議論は、酒あり歌ありでやっても良いかもしれない。)

8.立候補倍率:100倍以上を目指し、最後に誰が選ばれたとしてもリスクは低い。

現状の政治家立候補者倍率は、2010年で1.2倍しかない。制度が悪いのである。
なりたい人を選ぶのではない。ならせたい人を選ぶのだ。
経費は、会議参加だけだから、皆が優秀な友人知人を推す。)

9.国際的にもレベルの高い実務派人材が選ばれる。

10.立候補者は、組織をやめて選挙に備えるとか、駅立ち、チラシなどでの宣伝・売名行為は一切禁止されるので、お金も要らず、リスクもない。

11.政治家は選ばれて後、次選挙の軍資金を集金する苦労が一切なくなり、任期中、自己研鑽と政治に専念できる。

12.一票の格差を裁判で問題にしているが、それは、「選挙権の格差」である。

しかし、国会に2世、3世議員が、半分近いという「被選挙権の格差」こそが、甚大な問題なのである。

13.日本人の集合体としての行動文化、美意識に合う選挙手法である。

日本や日本人が、世界で尊敬され、好かれてきた理由は、緻密な文化や品質の良い製品やサービスなどがあげられるが、行動面で言えば、相手を立てる謙虚さ、約束を守るなどの誠実さ、正直さ、そして、勤勉さのためである。

(私は、国際協力の仕事を開始してしばらくは、国外での日本や日本人への評価の高さに、驚いていたが、どうも、受けた義務教育に影響されていたためだと分かった。)


「ならせたい人を選ぶ」(政治家自身は、会議の席で皆に議論の中で推されてなる。)という考え方が、日本人の倫理観、行動上の美意識に合うのである。

逆に言えば、これまでの日本の選挙制度では、欧米の行動文化の中でも望ましからざる面(名前さえ売れれば勝ち。でしゃばって全部とる。目立てば徳。長期より短期。規則さえ守っておれば・・。)が出て、日本人の行動文化に合わなかったということである。

このことは、現状の政治家全部が・・・ということを言っているのではない。

ただ、立候補倍率が非常に少なく比較対象がないため、そのような人材も選ばれる可能性が十分にあるのが、現状だということである。

この「勝ち抜き熟議選挙」で選ばれた政治家は、人々に耳を傾ける謙虚さを持つと同時に、厳しい議論を経ているため、タフな理論武装をした実務派であり、世界中、どこに出ても恥ずかしくない存在である。

例えば、彼らは、実務派、理工系人材の技術的なアドバイスをも的確に取り入れ、複数の言語文化を縦横自在に超え、
世界のスーパーパワーや近隣諸国の虚実を見分け、日本の政治上のリスクを最小化させる。

(自分を推してくれた少なくとも2段階;29人x30人=870人の人的ネットワークがもたらす、実務家によるアドバイザリー効果、もう一段階 下を入れれば、職種、世代を超え、アドバイザー数が、26,100人に達するからである。)

「勝ち抜き熟議選挙」をすれば、
仕事ができる実務家であるが故に、やりがいのある仕事、組織で重い責任と比較的に高い収入があり、これまで政治家に立候補しようとさえ、思わなかった人材も政治家の中に増えるだろう。

(政治の重要性を思えば、企業もそういった人材が政治家になることを容認すべきだ。しかし、元々仕事のできる実務派である。機会がくれば、組織に戻ればよい。)

政治家には、実務経験のある理工系人材が、少なくとも3%、できれば5%、海外で厳しい仕事をしてきた国際派も入れれば10%程度、が望ましいと思えるのだ。

(ここで言うところの理工系の実務家人材には、理工系の教育を終えただけの人材は、含まれない。

また、ある市長が、アジアで多くの政治家が参加する国際会議に出て、自分一人が英語に自由でないことに、日本の英語の先生が悪いと発言されたが、その程度の実務能力がない人は、海外で国際会議にでることが浪費では・・と考えるのが、一般の実務家の気持ちではないだろうか。 注:日本の学校教育では、従来、英語会話は重視されていない。)

(世界で仕事をして気が付いたことの一つは、英語を主体とする一部のスーパーパワー諸国を除けば、普通、政治家は、殆どは3つ以上の言語を使うことである。

日本では、官僚制度と公務員を批判する政治家は多い。

しかし、日本が、例えば、TPPなどに随分と遅れて参加したのも、国際的コミュニケーションのできない政治家が多いため、官僚組織が諸外国ときちんと対話を重ねることができないからではないかと思うのだ。

日本の中央省庁は、その職員にしても、留学や海外での経験者も多く、組織として国際的なコミュニケーションに困るということはない。)

この選挙手法「勝ち抜き熟議選挙」は、大規模な教育機関、自治体連合会などのリーダー選出、地域起こしにも使えるだろう。

例えば、町会議員、村会議員とか市会議員の選挙でも、他の地域から立候補者として来てもらえれば、「ヘッドハント効果」(外人効果)が出る可能性もあるだろう。

地域内で利益誘導の政治よりも、同じ日本人でも他の地域から癒着のない「外人効果」も活用すべきだ。

誰にとっても 公正な、全体最適の判断のためには、
新たな政治家として、地域で誰も知らない。全く人間関係がないという「外人効果」は、重要な要素なのだ。

この選挙方法は、熟議のため時間はかかるものの、問題解決(或いは、その基盤形成)とリーダー選出(それと、リーダーシップの確立)の両方が、同時にできる手法であり、これこそ、「日本の経営」の長所:ボトムアップ経営を体現している。

考えてみれば、この手法は、旧教のリーダー:法王選出の「コンクラーベ」だけでなく、アメリカインディアンの会議(争いの調停で言い分がなくなるまで会議を続ける)、インドネシア・ジャワのムシャワラ(人同志の触れ合いと話し合う経過を楽しむ)とか、昔からの日本の村の集まり(酒や歌が入り夜更けまでとか)を、単に繰り返すと言うだけであり
、その意味では、人類が遠い昔から実施してきた「平和で穏やかな会議」による合意形成の方法の延長線上にあるとも言えるだろう。

(ただし、ここで提案する選挙方法は、現代的なプレゼンテーション技能とAV機器を使うことで、参加者は、皆、結論が出るまでは、アルコールを入れず、規律を保ち、さらに目的を明確化してやることとなるだろう・・。)

我々人類の祖先が、何千年、いや、何万年の昔、美しくも厳しい
自然と共生しながら、
地球のどこかで「平和で穏やかな会議」の方法を工夫していたとしても、不思議ではない。

そして、我々の遠い記憶を自らの遺伝子の中から
拾いだし、
工夫を重ねながら、
「平和で穏やかな、本当に実効性のある熟議」をでき
るようになるとすれば、それは、現在の地球上では、日本人が最初であるような気がするのである。

私は、それが、少しずつ世界の国々に広がり、人類の標準となる日が、来ることを夢見るのである。

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PS:

思い出して欲しい。

駐日フランス大使を務めた詩人のポール・クローデル(1868年 - 1955年)が、 日本の敗戦が濃くなってきた1943年のある日、パリの夜会で

日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でどうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ。」と述べたことを。

彼は、劇作家、詩人、著作家であり、 日本の芸術を愛し、外交官として駐日フランス大使(1921- 1927年)を務めたが、

それ以外に欧州のオーストリアーハンガリー、ドイツ、イタリア、デンマーク、ブラジル、中国、アメリカ、ベルギーなどに駐在し、

広く世界を理解した人であった。

たいへんな秀才であった彼は、日本を見てみたいという一心で、外交官という職業を選んだという。

また「世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰」(波田野 毅著)という本の中では、

アインシュタイン(1879年~1955年)の言葉として

日本人は、これまで知りあったどの国の人よりも、うわべだけでなく、すべての物事に対して物静かで、控え目で、知的で、芸術好きで、思いやりがあって ひじょうに感じがよい人たちです。

と言い、さらに、

この地球という星の上に 今もなお、こんなに優美な芸術的伝統をもち、あのような簡素さと心の美しさをそなえている国民が存在している。

この国に特有な感情のやさしさや、ヨーロッパ人よりも優っていると思われる同情心の強さ

彼ら以外にこれほど純粋な人間の心をもつ人は、どこにもいない。この国を愛し、尊敬すべきである。」と紹介している。 


上記を読んでいただければ、日本の現在の政治がどれほど、日本人本来の姿から、逸脱したものになっているかを理解いただけるものと思う。

だからと言って、

私は、現在の政治家を咎めたり、メディアを責めるのは、間違いだと思う。

彼らは、皆、我々有権者と同様に、基本を欧米先進諸国に学んだ現在の選挙制度の犠牲者に過ぎないからだ。

驚くことに、私の経験では、
日系移民の多かった中南米でも、旧ソ連は中央アジア(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタンなど)でも、ロシア(ドイツ、フィンランドに次いで、日本が好きという)でも、モンゴルでも、東南アジアでも、アフリカでも、ヨーロッパ(英独仏、北欧諸国など)でも、日本人の行動文化については、それらを称賛し、大いに学ぶべきだという人たちは、ことの他、多いのである。

中国人も韓国人も、日本に旅行したり、留学したりした人たちは、皆、心の底では同様の意見だ。

言い換えれば、どの民族の行動文化を学ぶべきかと、世界中の人々に問えば、第一に挙げられるのは、日本人だろう。

(ただし、女性の社会参加とか、多国籍組織のマネジメントなど、
日本人に欠けた能力や、忘れたこともある。若い世代は、日本の古典的オペラ:能楽などを体験しないのだから、日本語本来のリズムや美しさが分からない。禅を知らないのだから、武士道が理解できない。世界の人々が憧れてきた日本人になるには、適切な指導が不可欠なのだ。)

我々日本人の諸先輩は、明治以降、世界の歴史を変えてきた。

人々の心や世界を変革することに成功したと言っても過言ではない。

日露戦争では、経済力8倍のロシア(白人の国)に戦勝し、アジアを初め、中南米、アフリカ諸国のリーダーを感激させた。

先の大東亜戦争には、米国に敗れたとは言え、数年間も戦争を続行し、その結果として欧米列強による植民地化の時代が終わるという 近代人類史上の大きなきっかけを作ったのだ。

このブログの読者の皆さんがあちこちで議論を広められることに期待したい。

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