「人生を面白くする本物の教養」出口治明著 読了 | 52歳で実践アーリーリタイア

52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 

<概要>

生命保険会社の読書マニアCEOが、人生は「数字・ファクト・ロジックによって自分で考える」という「本物の教養」を身につけると楽しい人生になると提言した書

 

<コメント>

出口治明さんの対談をネットでみて「説得力があるなあ」と思ったので、早速6年前(2015年)に出版された新書通読。とても読みやすくエッセイのような本なので、あっという間に読了。

 

感想としては「なるほど」と思う点が多い一方、最後の「時事問題編」については、6年前ということもあって、ちょっと「考え方の古さ」を感じてしまいました。時が経てば、著者いうところの「数字・ファクト」が変わってくるので当然ですね。改めて最新の著作を読むべきだなあと思ったのが読後の感想です。

 

出口さんの考え方は、典型的な啓蒙主義者の考え方。やはり本人定義するところの「本物の教養」を身につければ、最終的には啓蒙主義的思考になるのかな、と思います。

 

したがって政治信条であれ、宗教であれ、原理主義的な思想を持った人からみると、異論が多いかもしれません。

 

一方で特定の政治信条や宗教を信じている人でも、原理主義的思考から離れて異なる考え方を「理解する」「受け入れる」ことができれば、その時点で「多様性を認める」ということになるので、啓蒙主義的考え方を受け入れたことになります。

 

今話題の選択的夫婦別姓は典型的な事例。自分の信条である「家族は同じ姓が良い」という考えであれば、同じファミリーネームで家族生活を続ければ良いし、この考えを変える必要もありません。ただし異なる考え方=「家族は同じ姓でなくても仲良く暮らせる」と思う人に自分たちの考えを押し付けてはいけません。

 

「多様性を認める」ということは「自分はこうだから他の人もこうすべき」という原理主義をやめましょう、ということです。

 

■教養とは何か

著者が冒頭に紹介しているココ・シャネルの言葉が印象的でした。

私のような大学も出ていない年をとった無知な女でも、まだ道端に咲いている花の名前を1日に1つぐらいは覚えることができる。一つ名前を知れば、世界の謎が一つ解けたことになる。その分だけ人生と世界は単純になっていく。だからこそ、人生は楽しく。生きることは素晴らしい

私がアーリーリタイアした目的の一つは「勉強する時間がもっと欲しいから」。なぜなら楽しいから。なぜ楽しいのか?その答えは上の「ココ・シャネル」の言葉に近いなあと思いました。

 

私の場合は

「世界の謎が一つ解ければ、その分だけ自分の世界は広がっていく」

 

という感じか。

 

世界は自分が作っています。なので勉強すればするほど、その世界は広がっていく。こんな楽しいことは中々ありません。

 

■自分の頭で考えない方が都合がいい社会

著者のように「自分で考えろ」とは、ビジネス誌を読んでいると、大抵のビジネス偉人は同じことを言ってるなと思います。

 

でも、これをそのまま真鵜呑みにしてしまうと、大抵は嫌な思いをすることになります。出口さんのような懐の深い上司は、そうそういないからです。

 

なぜなら「自分で考える→自分の意見を持つ」と、しばしば会社や組織の方針や上司の意見と異なる考え方になってしまい、会社・組織や上司に対して批判的になります。組織や上司をそのまま批判すれば、組織や上司は嫌な感情を持ちます。最悪は村八分です。だから自分の頭で考えない方が都合がいい社会なのです。

 

ここで大事だなと思うことは「なぜ会社はそう考えるのだろう、上司はそう考えるのだろう」と「相手の立場になって自分で考える」ことです。すると、どんな考え方でもそれなりのロジックがあり、納得する部分もあったりします。

 

その上で自分の考え方を組織・上司の考え方と同列にして比較すれば良い。そうすると村八分にならずに建設的な議論になるのではと思います。

 

著者の場合、時事問題は、対象の「本音は何か」「動機は何か」で読み解ける、と言っていますが、これに近いかもしれません。

 

■あくまでも「歴史は一つ」である

私もそう思いますが「これは学問的な立場から言えば」という条件付きになります。個別に自分(または自分たち)の都合の良い歴史があってもいいのではと思いますが、著者は否定しています(司馬史観など)。

 

歴史には大きく分けて「事実の歴史」と「価値の歴史」があるのではと思います。

 

著者のいう学問的な歴史は「事実の歴史」。自分に都合の良い歴史が「価値の歴史」。

 

で事実の歴史は、科学的な歴史といってもいいかもしれません。そして万人が共有できる歴史です。事実の歴史は著者曰く

さまざまな資料や文献を総合的に分析して蓋然性を探り、それと併せて録音データにあたるもの(物証)を自然科学的アプローチで探すことができれば「歴史は一つ」だということが明らかになります。

「事実の歴史」は一つではありますが、新しい文献や遺跡の発見、より納得性の高い解釈が生まれれば歴史はどんどん変わっていくともいえます。事実の歴史は、決して固定することはありません。自然科学の学説と同じ構造です。同じ啓蒙主義的思考ですから。

 

一方の「価値の歴史」。私の歴史とあなたの歴史は違います。同じ時代・同じ場所に生きていたとしてもそれぞれの歴史は違う。それぞれの関心や視点が違えば、その関心や視点に合わせて歴史は変わるものです。「語っている主語が変われば歴史は変わる」という感じです。

 

価値の歴史は、いい意味での内集団バイアス=仲間意識を醸成するとともに、個人・個人に生きる意味を与えます。事実の歴史は生きる意味を与えてはくれません。

 

一方で、価値の歴史は原理主義になりがちなので要注意です。ほとんどの過去の歴史書は「自分(または自分たち)に都合の良い歴史」、つまり「価値の歴史」です。大抵はその時々の政治権力が歴史を作るので、その政治権力にとって都合の良い歴史になります。ほとんどの歴史上の共同体は権威主義的なので、このパターンになります。現代でも権威主義国家・中華人民共和国などがこのパターンです。

 

民主主義国家でも、国益が絡む場合は自分たちに都合の良い「価値の歴史」の立場をとる場合もあります。特に領土問題がそうです。過去に侵略のされた側とした側も同じです。

 

ただ啓蒙主義を標榜する本当の民主主義国家であれば、上手に解決する場合もあるかもしれません。著者が言及しているノルウェイとカナダの領土問題です。当該紛争地域において双方が交代で軍隊を派遣しているそうです。共同統治みたいな形式です。

 

(群馬の某ゴルフ場にて。出口さんは、ゴルフのお誘いは断って読書の時間を確保しているそうです。私のような凡人だったら、いっそのこと仕事辞めちゃえばいいのにと思いますが、凡人とは違って大学の学長に転職したので、偉い人は違いますね)