文藝春秋「司馬遼太郎が見たアジア」特集を読みながらの疑問 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

司馬遼太郎の著作は私も好きで「項羽と劉邦」「龍馬が行く」「坂の上の雲」など、学生時代から耽読したが、文藝春秋3月号「司馬遼太郎が見たアジア」における中国に関する知見は、ちょっと違うなと思う点が数多くあった。

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1970年代の情報からするとまだまだ、毛沢東中国の実態について、深く知り得ないために、致し方ないと言ってしまえばそれまでだが、あまりにも中国を過大評価しすぎ。。

そして中国専門家で文化勲章授章するぐらいに著名な貝塚茂樹(湯川秀樹の実兄)でさえ、同じような認識であることに大いなる疑問を感じた。

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文化大革命に対して、古いものは全て止める、明治維新では西洋のまねをして文明開発をやろうとしたが、文革はその上を行っているというのは、現代からみたら驚きの考え。でも、当時の人たちは、皆このように文革を本当の文化の革命だと思っていた人が多かったのだろう。

そして、司馬氏曰く「中国のイデオロギーというのは非常に地についている」。イデオロギーなんて中国人にとっては、権力闘争や金儲けのための手段にしかすぎない。リアリストの固まりである中国人が、イデオロギー優先で「政治をする」「生きる」というのは、歴史上あり得ない。

春秋戦国時代の百家争鳴のころ、たくさんの思想が開花したが、あれらは全て政治思想であって、プラグマティックなツールとしての思想。老荘思想は、権力闘争で負けたり、金持ちになれなかった知識人たちのいわば、逃げ道の思想(今風に言えば癒しの思想)であって、決して日本人が憧れるような代物ではない。

清朝時代の康煕帝や乾隆帝などは違っていたかもしれないが、少なくとも始皇帝に始まる歴代の皇帝達は、権力を維持するために人民を統治しているのであって、人民のために統治しているのではない。国教的立場である儒教という思想は、それを正当化するためのツールとしての思想(宗教ではない)であって、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教やヒンズー教などを国教にした国家・礎にした民族とは、全く似て非なるものである。

当然、毛沢東の中国もその例に違わず、文革の現実は、いや中国共産党によって建国された中華人民共和国は、少なくとも鄧小平が全権を把握するまでは、中国共産党内の毛沢東による権力闘争がそのまま社会に反映した時代。

長征然り、百花斉放然り。反右派闘争然り、大躍進然り。つまり権力掌握能力や戦争能力はあっても国家運営能力がない毛沢東が、その実権を死守するために、国家運営能力の高い劉少奇や鄧小平ら、そして最後には最も忠実な部下である周恩来でさえ失脚させようとしたというのが中国共産党の中国。

毛沢東秘録や周恩来秘録などを読めば、その悲しい実態がよくわかる。

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だからこそ、中国人は皇帝たちが支配した時代より、国家なるものは信用せず、金持ちだったら、いつでも外国に逃げられるように海外に蓄財し、二重国籍を取得しているわけだ。

中国人が「礼」を重んじるのは、現世利益のために役に立つからであって、ピュアに信仰しているのではない。中国人、否な漢民族にとって「宗教」も「思想」も「道徳」も、そして「政治」も、全て皇帝から一般庶民まで現世利益のためのツールにしかすぎないことを日本人含めた外国人は認識しておくべきだろう。そしてそうせざるを得ない彼らの悲しい立場も理解すべきである。