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母は躁状態マックスで何故か金沢へ移り住んだ。

そう言えば、以前金沢の町が銀座に負けないくらい素敵なところだと言っていた。


その頃には私は結婚して長男も生まれていた。


実家の父は心配してそっと金沢のアパートまで見に行ったりしていた。行く道中気持ちが滅入るから、と長男を助手席に乗せて話し相手にした。


アパートへ行き、窓からそっと中を見ると、眠そうな疲れた顔で必死にミシンを走らせていたらしい。母は裁縫も好きだったが、誰かにエプロンでも縫ってプレゼントしようとしていたのだろうか。


たまに私たちに来る母からの手紙は


「楽しく毎晩のように生ピアノの伴奏で歌わせてもらえる店に出向いてはシャンソンを歌っているということ」


と、それから当然


「お金が足りないので送れ」


との内容だった。

そりゃぁお金ないよな、働かないんだもん。


でも、ミシンで縫い物をしていたのを今改めて思うと、

それって誰かに褒めて欲しかったんじゃないかな…

「あら素敵なエプロン!こんなの作れるの?」

「素敵ね〜」

「歌も上手いし才能あるわね〜」


こんな賞賛が欲しかったんじゃないのか。


よくよく考えてみたら、母こそわずか8歳で戦争で家族全員を亡くし、貧困な遠い親戚に作業員として引き取られ、愛情を注がれることも賞賛されることもなく育ち…


「安全基地」なかったよな。。。


常に不安な中、生き抜いて私を生んでくれた。


自分が愛情をもらわなかったのに、それでも私に愛情を注いでくれた。


それが私が11歳の頃、枯渇してしまったのか。


「もう私の愛情は限界」


それで

粗開先で唯一の楽しみだった合唱部の歌を


「今こそ思い切り歌おう!さぁ!もう我慢はしないぞ!」


ってなった。


なんかわかる気がしてきた。

もちろん躁状態特有の雰囲気はあったが、根底にはそれがあったんじゃないかな。


けして散財して夜遊び、いいことだとは思わない。

周りにも迷惑をかけたし、父も散財されて必死で働いてくれた。


でも負のスパイラルと想いたくないな。


頑張って生きてきた母の課題を、バトンを受け渡されたんだ、私。


これを子ども達にこのままのバトンの形では受け渡したくない。


目標は何だろう。


飾らずありのままに、大切な人と絆を築いて、穏やかに生きて行けること。


寂しかった気持ちの連鎖は、断ち切るんじゃなくて、認めて褒めてあげることなのかな。


お母さん、よく頑張ったね。

偉いよ!!!


そしてチョットダケ…


11歳の急変した母にたまげている私にも言おう。

頑張ってきたね!


ちょっと照れるけど、たまにイイコイイコしてあげよう。


(続く)