「折り行ってお話があります」
そう看護師長は言った。
「わかりました、お願いします」
「お母様の病状ですが、あまり良くありません。腎臓にも負担が出ていますが、透析するにも血管が細く、脆く、適さないのです。今すぐというわけではありませんが、他のご家族にもお知らせ頂けたらと思うんですが」
もっと沢山会いに行こう。
もっと他の家族も連れて行こう。
いやもっと、もっとできる事ないかな。
その時私はシングルマザー、仕事もなかなか休めず、広場恐怖症もあって…トンネルを通りにくい…
母を引き取りたい。
その気持ちは今でも激しい後悔に繋がっている。
軽く認知症はあるが、私が誰なのかまだはっきりわかっているんだから、穏やかに余生を一緒に暮らしたら…
「どれだけ色んな親子の対話が出来るだろう。思い出話に花を咲かせたり母の見たい景色を見に行ったり、食べたいものを食べさせてあげたり、家族団欒をもう一度味あわせたり…」
そう思っていた。
なのにそうしてあげられなかった。
金銭的にも、肉体的にも恐らく限界が来て、穏やかではいられなくなると予想し、踏み切れなかった。
父の時も度重なる徘徊の末、施設に預けてしまった。
自信がなかった。
私は両親を幸せにしたかったんじゃなかったの?
最低の娘だと思った。
でも今になってふと思う
「当の本人はどうだったんだろう?」
母は「なんで引き取ってくれないんだろう」と思っていただろうか?
母はそんな事は一言も言ったことがない。
施設に入っても、私がシングルマザーであることをいつも心配してくれていた。
孫のこともいつも心配していた。
面会に行く度に、遠いのに負担にならないか心配してくれていた。
母との最期の会話も
「遠いのに来てくれたの?」
だった(泣)
もしも強引に一緒に暮らし、子や孫に負担がふえる事になったとしたら…かえって心配で辛かったかもしれない。
毎日一緒に暮らし介護をすることは生半可な事でないのは父の時に母も私も理解していた。
母は何より子供と孫に苦労をかけたくなかったかもしれないな。
そもそも嫌がっていた施設入所をあっさり受け入れたのはそこなのかもしれない。
もう2度と自宅に戻れる事はないとわかっていながら…
子供だけには迷惑をかけたく無かったのかも。
そして…
私が年を取り、もし同じ状況になったら?
う〜ん、やはりそちらを選択するだろうと思う。
私を介護することで子供や奥さんに辛い時間を与えたくない。絶対。
たまに顔を見せに来てくれるだけでいい。
自分より大切な存在だから。
いつも自分らしく充実した毎日を送って欲しい。
そう考えると、母はとうの昔に割り切ってそう考えていたのかもしれないな。
そう考えると少しふ〜っと肩の力が抜けた。
私に自分らしくいて欲しかったのかもしれないなぁ。
今でも空の向こうでそう思ってくれてるのかもしれないなぁ。
そういえば、母が亡くなった時に、看護師長はそういう意図もあってそう言ったのだと私に教えてくれた。
深い愛がそこにもあった。
看護師長の言葉のお陰で、私はなるべく行ける時は母に会いに行くようになった。(続く)