小学校の算数の問題をやってみました。

水の入った水槽に、桝(ます)を沈めて、
こぼれた水の体積やら、桝の容積やらを求める問題です。




図1→2→3の流れで、桝を沈めて、引き上げます。


与えられている条件は、

 ・水槽に厚みはないこと。
 ・水槽の縦、横、高さ。

 ・桝に厚みがあること。
 ・桝の外側の縦、横、高さ。

 ・水槽に始めに入っている水の量。(図1)
 ・桝を引き上げたあとに残っている水の量。(図3)

です。




さて、
ここで、筆者はある疑問を抱きました。


 図1に比べて、図2の水の量が減っているのはなぜか?


よく考えればなんでもないことですが、
(というか、ふつうは、すぐわかるのかもしれないですが)、

問題文を読み直してみたり、いろいろ悩んで、


 そうか、
 桝を沈めるのに手を使ったからか!


という結論に至りました。


そんなわけはないんですが、「少なくとも引き上げるには、
手がないと無理だよね」などと妙に納得して
図2では、手の分だけ水が減っていて、手の体積は不明、
ということにして考えました。

しかし、どうもうまくいきません。条件が足りない。



そこで、また、よーく考えて、

 桝の中に水が入ってくる前に、水が溢れたからだ!

とやっと気付きました。


皆さんは、すぐ気がつかれたでしょうか。
もしそうなら、一般的なの小学生以上の算数力をお持ちだと思います。
数学スナップショット
H.ステインハウス
遠山啓 訳
紀伊國屋書店
1976年

Mathematical Snapshots
Hugo Steinhaus
Oxford University Press, Inc
1948


シュタインハウスの本です。
この間、はじめてみつけました。

数学の視覚化を目指した本だそうで、
すべてのページに、少なくとも一つは
写真か絵が載っています。

大半はやはり幾何的な問題で、ときどきチェスの問題とか音楽の問題が
混じっています。
ただ、幾何的といっても、多種多様で、
よく温泉に置いてあるパズルみたいもの、
サイクロイドの話、立体、地図、力学的なものなど本当にいろいろです。

いつものごとく、まだほんの数ページしか読んでいませんが、
一つの話題に割かれる文字数が少なく、すぐ次の話題になります。
あとの方ではたくさんページ数を使っている話題もあるようです。

訳者の遠山啓さんは、
「このような本を書いても、専門の数学者でなければ考えつかないような
鋭い思いつきや、カンが読みとれる」と“訳者はじがき”で述べています。

確かに、思わず考えさせられる問題です。
証明としてはピタゴラスの定理の証明しかまだ読んでいませんが、
筆者の知らないやり方で証明されていました。

中学のとき、数学の先生が、三平方の定理の証明はいろいろあると言っていましたが、
これまで2通りくらいの方法にしか出会わなかったので、「ホンマかいな」と
内心疑っていましたが、ここにきて未知の証明を知ることが出来ました。

高校の図書館にもありそうな本なので、
もしあったら是非どうぞ。
フェードル
ジャン・ラシーヌ作
内藤 濯 訳
岩波文庫 5901 
岩波書店 昭和三十三年


ギリシャの悲劇に、ラシーヌが手を加えた劇です。

5幕ありますが、非常に薄いので
電車の中で読んで、二日で読めました。
劇なので、台詞ばっかりで読みやすいということも
あるかもしれません。

読み始めたときは、「ありがちな古い劇」という印象で、
図書館で借りたことを後悔しかけましたが、

 けだかい輝かしいお天道様、わたくしの母上は、
 あなた様の娘であることを誇りにしおいででした。
            (フェードルが登場してしばらくしゃべっている場面)

など、名台詞も出てきて、頑張って最後まで読むことにしました。

しかし、古いというか、もったいぶってるというか、
「お天道様」って今の高校生は何だか知ってるんでしょうか。
聞いたことあっても、読めない人が結構いそうです。

そして、この台詞や他のことから、
この物語では、神様が人間のすぐ近くにいる(本当にいる!)ことがわかります。
(ギリシャの話やから、当たり前といえば当たり前か。)

太陽は神様のひとつと思えば、フェードルのお母上は、
神様から直接生まれたことになります。フェードルは人間二世です。
もちろん、「人間はみな神の子」というような意味での台詞とも考えられますが、
このお話では、そう採らなくてもいいくらい、神様の存在は確固としています。(本当にいる!)


詳しくは、実際に読んでいただきたいと思いますが、
最後は感動の結末でした。
悲劇だから、bad endですが。


ひとつの世界に、神様と人間とが暮らしていながら、
両者の間には、越え難い壁があるように感じました。

神様は、人間の心を持っていないようです。
人間から見ると、神様は偉大である一方、冷たく機械的です。
神様は人間を救ってくれるとは限らず、
人間の利益や感情から切り離された基準にもとづいて動いているようです。
人間としては、神様のおかげでとか、神様のせいでとか
思うことがありますが、神様本人はそんなことは何も考えてない(感じてない)
というような気がします。

最近別のところでも、そういうことを感じたので、
『フェードル』を読んで以上のような神様観がより強くなりました。


最後に、この話には、
怪物が二体ないし三体出てくるのでご紹介します。

一つは、王の友を食べてしまった、「死体の血を啜って育った獣」です。
詳しい記述はとくにありません。

もう一つは、
終盤の大変重要な場面で出てくる海の怪物です。
これは、説明があって、
「全身が黄色い鱗で覆われている」そうです。

海の怪物と言うと、
ハリーハウゼンの『タイタン』のクラケンが思い浮かぶのですが、
これは、鱗で覆われていますが、青黒い色で黄色ではないです。
黄色だとずいぶん印象が違います。
『フェードル』の原作から黄色だったのかどうか知りませんが、
作者のセンスを感じます。
黄色い怪物って、現代ではあまりいないんじゃないでしょうか。
神の持ち物だから、おめでたく黄色いんでしょうが、
却って気味悪さも感じさせます。
でも、輝かしくゴージャスさがあって、物語における神様の雰囲気に
一役買っているのは間違いないでしょう。

Youtubeで見たのですが、リュリのなんかの序曲で、画像が
『タイタン』関連の画像の寄せ集めになってるのがありました。
クラケンの絵も、どっから見つけてきたんや!と思うくらいいろいろ出てきて、
面白かったですが、クラケンはいろんな形のがいました。
タコみたいなのとか、ワニみたいなの、魚となんかが混ざったもの、
などでした。
ハリーハウゼンのクラケンは、人間的な形でした。

フェードルのクラケンはどんな形なのでしょう。
夢がありますね。。


最後もうひとつの怪物は、「魔神」としか書いてないので
全くよくわかりません。
小さい鬼みたいなやつではないかと思うのですが、どうなんでしょう。


あー、それと、
この本は、言葉がもったいぶってて古臭いですが、
名台詞はほんとに多いです。
まさに読んで劇をするためのものです。

訳者あとがきで、「ラシーヌは文章がすばらしいので、
日本語に訳するのは不可能」という話がでてきますが、
原作を読んでない者がいうのもなんですが、
いい訳なのではないかと思います。

なんか、最近は改版されて、
『フェードル アンドロマック』(渡辺守 訳)になっているようです。
こちらは読んだことがないですが、
内藤さんの訳が良かったら、図書館か古本ということになります。

内藤さんって、お名前が「濯(あらう)さん」なんですよね。
昔の人の名前ってなんかいいですよね。
ちょっとかっこいい感じの名前として、近年は「音読み」の名前がありますが、
昔の人は結構「訓読み」をいかした名前の人がいますネ。