今日沖縄では慰霊の日になっていて学校などは公休日となっています。
そして糸満市の平和祈念公園では「沖縄全戦没者追悼式」が行われます。
その他各地で慰霊祭も。
私が学生時代のビジネスの授業、会社員になってからも上司からお客様とは絶対に話題にしないように言われてたのが政治、宗教、野球
ブラックな部分になるし賛否両論あるので出したくない話題ですが今日だけは特別。
そして今回は私の意見ではなく事実です。
戦後72年たち戦争体験者がどんどんいなくなる中で過去に私の祖母が体験したことを残すべきだと思いここに書いてみました。
そういう話が嫌いな人はここからスルーしてください。
私が高校生の頃に戦争体験者から戦時中の話を聞いてレポートするという宿題がありました。
私の祖母は当時海の近くに住んでいました。
アメリカ軍が上陸する前は近くに日本軍(以下友軍、祖母がそう呼んでたので)の宿舎が近くにあり屋敷内に井戸があった祖母の家は友軍(ゆうぐん)が水をもらいにながら気を使って食料などを置いていったそうです。
戦時中の食べ物が少ない時だったのでその時は井戸があってよかったと思っていたと話してました。
しかし米軍が上陸することとなり家を捨てて親戚の家族と幼い乳飲み子を含む子供たちを連れていろいろな壕を渡り歩きながら避難していったそうです。
そしてある壕に避難しているときまだ赤ちゃんだった叔父が泣いたそうです。
避難している壕の中、その中に友軍もいました。
そして赤子が泣くと敵に隠れている壕がばれてしまう、そうすると皆殺しだ!と友軍の一人に赤子をを殺すように言われたそうです。
私の祖母は迷った末
『自分の子供は殺せない!殺すならあんたが殺せ!』
とその友軍に赤ちゃんを預けたそうです。
でもその日本兵も殺す勇気がなかったのかそのまま赤ちゃんを返してくれたそうです。
その後も壕を転々としている間に終戦を迎え捕虜になり祖母の家族は全員が助かりました(ちなみに私の母は戦後生まれです)
しかし中学生くらいの写真が祖母の家に飾られていましたがその写真を指差し
『あれは〇〇叔母さんの子でこの子は戦争で亡くなったんだよ』
とポツリとつぶやきました。そして
『捕虜になってからも収容所は不衛生で○○叔母さんの子の△△ちゃんは(また違う子)どんなに服を洗濯したり体をきれいにしても服とか関節とかにシラミがいるんだよ。他の子にはつかないのに。やっぱりわかるんだろうね、しばらくしたらその子も死んだ・・・』
おしゃべりではない祖母ですが1時間ほど思い出すようにポツリポツリと話しながら時には涙をすすりながら話してくれました。
これを書きながら20年以上も前のインタビューですが私も思い出しては目頭が熱くなってきます。
後にも先にも祖母が戦争を語ったのはこの時だけでした。
今平和に生活している私たちができることを考えながら毎年この慰霊の日を迎えます。
子や孫、そのまた子供たちにこんなつらい経験をさせないためにどう進むべきか、私一人の力ではどうにもなりませんが一人一人が思うこと、声を上げることで変わっていけることを信じています。
最後までお読みいただきありがとうございます。