生きてるだけでいいじゃないか

 

 

 

 

 

12月14日

 

 

amazonの履歴によると

私がそれを注文したのは

その日だったらしい。

 

 

 

 

 

 

少し時間をさかのぼると

2018年の11月下旬から12月頭にかけて

体調も芳しくなく

精神的にも孤独を極めており

 

『どうせ治ったところで

一人で生きてく他ないのだから

いっそ、このまま帰った方が

私にとっては“しあわせ”なんじゃないか?』

 

と思えてきて

「未来」とか「将来」に対して

気持ちの持っていき場がなかった。

 

 



そんな時に出会った本

 

 

あふれでたのは やさしさだった

奈良少年刑務所 絵本と詩の教室

 

 

 

心からのごめんなさいへ 

~一人ひとりの個性に合わせた

教育を導入した少年院の挑戦~

 

 

 

 

心の風向きが変わる音を聞いた。

 

 

 

 

『親も、親友も、友達も

“仲間”を自称した人々も

誰もわかってくれない』

 

本気でそう思っていた。

 

 

 

 

『わかってくれる人が

一人ぐらいいたっていいじゃんか

それなのに、なんだよ…なんだよ…

なんで私は、ずっとひとりなんだよ』

 

と、すべてがうらめしいような

憎たらしいような

被害者意識と呼べそうなそれが

そこにはあったかもしれない。

 

 

 

 

そんな中で手に取った

『少年院での教育に関する本』たちは

文字通りの意味で

頭を金づちで殴られるような衝撃を

私に与えてくれた。

 

 

 

 

「誰もわかってくれない」

って言うけど

じゃあ私は、【誰か】のことを

わかっているのだろうか。

 

真に、わかろうとしたことが

これまで一度でも、あっただろうか。

 

 

 

 

そして、これからも

『誰もわかってくれない』と

嘆き続けていたいだろうか。

 

それとも

自分から誰かをわかろうとすることを

選びたいだろうか。

 

 

私は、どう在りたいだろうか。

 

 

 

 

問う、というほどの作業を要するでもなく

簡単にでた結論は

 

『自分とは違う誰かの見てる景色』を想像してみるということ。

だった。

この記事の日付は

12月14日になっている。

 

 

 

 

「今、私のことを

“わかってくれる人”は

誰もいない、と感じているのは事実だ。

それでも、それならば

自分から“わかろう”としていこう」

 

そういう気持ちの表明だった。

 

 

 

 

心のダイレクションを定めてみても

消えることのない体の痛みと

慢性化していた息苦しさは

未来への見通しだとか

明度を下げるには、十分な効果があった。

 

 

 

 

切羽詰まった私は

“amazon”で、希望を探した。

折れそうな心を

鼓舞してくれる「何か」を求めて。

 

 

 

 

18歳で光と音を失った著者は

絶望の淵からいかにして

希望を見出したのか

 

 


 

【内容紹介】

 

3歳で右目を、9歳で左目を失明

14歳で右耳を、18歳で左耳を失聴し
光と音の世界を喪失した福島智氏。

 

 

氏は当時のことをこう綴っている。

 

「私はいきなり自分が

地球上から引きはがされ

この空間に投げ込まれたように感じた。
 

自分一人が空間のすべてを

覆い尽くしてしまうような

狭くて暗く静かな『世界』。
 

ここはどこだろう。

 

(中略)

 

私は限定のない暗黒の中で

呻吟していた」


著者はまず

他者とのコミュニケーションを

いかに復活させ、
言葉=情報を再び得ることが

できるようになったかを語る。
 

 

だがそれはプロローグにすぎず

自ら生きる意味を問い

幸せの在処を探し求める。
 

 

その深く鋭い思索の足跡は

両親や友、師との交流に始まり

フランクルや芥川龍之介
北方謙三といった人物たちの著書や

谷川俊太郎、吉野弘の詩
はたまた落語にまで及んでいく。


苦悩の末に著者が

見出した生きる意味

幸福の形は読む者にもまた
深い思索をもたらしてくれるであろう。


人間と人間が

本当に繋がり合うとはどういうことか

仲間との信頼関係を築くためには
何が大事かといったことが

説得力を持って迫ってくる。

 

 


“9歳で失明

18歳で聴力を失い

東大教授となった人”の話なら

素直に聞ける気がして

注文ボタンを押した。12月14日だった。

 

 

 

 

 

 

 

さっき夜中に目が覚めて

2ヶ月前に読んだ福島智さんの

本のことを思い出した。

 

 

 

 

すんごい感動した記憶があり

270ページ中、200ページに

ドッグイヤーがある勢いだけれど

 

久しぶりにパラパラと本をめくってみても

今の私にはもう

当時と同じ熱量で

それらを感知することができない。

 

 

 

 

それは

“元気になった”証拠かもしれないし

「あの頃みたいには

もう感じることは叶わないんだ」

という事実は、少しの切なさを

呼び起させるものでもある。

 

 

 

 

一箇所だけ。

 

 

【豊かな先進国にしか

「自分らしさ」を求める人間は

存在しない】

 

 

いかに生きるか

どう生きるかということも

もちろん重要だと思います。

 

 

しかし、それは命の一割くらいに

かかわる話であって

残りの九割ぐらいは

生きることそのものだと

言っていいのでは

ないでしょうか。

 

 

ところが私たちは、

この一割をめぐって

クヨクヨと悩んだり

後悔したりしています。

 

 

その一割が重要だとも言えますが

その一割がなくても

生きているだけでいいじゃないか

という見方もできると思うのです。

 

 

 

生きてると

いろいろあるけどさ

『生きてるだけで丸儲け』だし

『生まれてきただけで100点』だって

思い出し続けていたいよね。

 

 

それは、ほんとうのことだから。

 

 

 

 

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