以前、この様なブログを書きましたが→『
アニメを見てカタルシスが起きた件』
再度、
『マリア様がみてる』
何が素晴らしいのか、私の熱い思いを綴っておきたいと思います。(考察と呼べるものでは無いかも知れませんが・・・)
※自己保存ですので、苦手な方はスルーでお願いします。

まずは、『マリア様がみてる』とは、どの様な作品なのか?というところです。
ざっくりと説明しますと、
全ての巻の頭言に、ここは「乙女の園」であると記述されており、リリアン女学園というカトリック系の女子高の中での人間関係に焦点を置き、主人公の福沢祐巳を中心に、関わり合う人々の葛藤や成長を描いた学園青春物語です。
このリリアン女学園には、独特の「スール制度」というものが存在しており、
ある特定の人物(上級生)とロザリオの授与を行い「スール(姉妹)」となることで、姉が妹を想う様に、厳しくも優しく導く事を目的とした独自の設定があります。
詳細はこちらをご参考ください→
Wikipediaマリア様がみてる私には、『マリア様がみてる』は、生涯のベストブックの一つになると思います。

主人公福沢祐巳の人との向き合い方には、
自身を振り返らせるものがあり、
彼女のように人と接することが出来たなら、自分を大切にしながらも、相手を大切に思い、心豊かに人と繋がれたのかと、、
過去別れてしまった人達との事を思い返させられました。

祐巳の祥子との関わり合いかた、瞳子との向き合い方に、
作中では決してそれを恋愛感情であるとは触れませんでしたが、ロザリオが婚約指輪のようなものだと表され、スールは結婚と同じだと表現されていました。
言葉には表し難いほど、祥子や瞳子へ強く惹かれる想いは、無償の愛で我が子を思う母と同じ(マリア様のこころ)、
恋しさを彷彿とさせ、
悩み、さ迷う子羊達(祥子や瞳子、聖も。)を、神の御元(彼女達の救済)へと導く姿はキリストの諸行を垣間見させてくれました。
祐巳が、いついかなる場面でも、相手との関係性の中、自身と向き合い、心の奥底から沸いてくる真心のような、真我で、正直に真っ直ぐとそこへ向かって行動を起こして生きた結果(産み出す女性性の現れ)、
スールという『絆』をそこに確立させて行きました。
それは聖や志摩子が「カタチ」と呼んだ縛りではい、スール制度の完成形が出来上がったのだと感じました。
リリアン女学園という、少女を中心とした限られた世界の中、スール制度を通して、
そこには、恋人から夫婦となり、家族となって、ひとつの絆を作り上げる理想のカタチが「乙女の園」で描かれており、
とても美しいと思ったのです。

私は、最初の救済者である祥子に自己の投影をみて、
瞳子と祐巳の関係性に、過去の人間関係を見つめ、祐巳の向き合い方に私が救済されました。

祥子と祐巳の二人は、両方とも相手の存在によって「救われている」という双応性があり、
最初の引っ込み思案な性格の祐巳が、強い憧れを抱く、
「小笠原祥子(大金持ちの娘で、成績優秀で、物凄い美貌の持ち主で、全校生徒の羨望の眼差しを受ける少女)」とスールになる事によって、
お姉さまに相応しい自分になろうと努力をし、前向きに自分に自信を持って生き始めるところが祐巳にとっての成長であり救済です。
その祐巳が、祥子の実は、ものすごくか弱く弱い存在である内面に徐々に近づいてゆき、
祥子の弱さを知り、そこを受け入れお姉さまを支えてゆきたいと自発性を持ち始め、精神的なパートナーとなっていく事に物語の本質があるのだと思います。

祥子と祐巳の素晴らしい絆がそこにはあり、お互いへ向かう気持ちは、
自身を越えて相手を慕い思いやり、相手へと向かう思い=越路=恋路と変わらない百合の世界を垣間見ました。

そして、瞳子との関係性の中では、
スールとして、お互いを見つめて生きるだけではないという、
スール制度の世界からの脱却が描かれています。

祐巳は、万年平均点の普通の女子高生。
強い憧れを抱いていた祥子との関係性の中で、祥子だけを見つめてて、自分を見てほしいという、周りの世界まで見えなくなってしまった時期(依存性)を経て、
世界が決して二人だけで構成されていないという事を覚ります。
瞳子を大切に思う気持ちは、初期の祥子とのスール関係とは異なり、全体の中で、瞳子を特別に大切に思い、包み込んであげたいという思いへ発展してゆきます。
自分達だけを見つめる視線は、そのまま全体の中で、見つめられていて、
今度は、そちら側へ視線を向けていこうとする視点へと変わってゆきます。

中々瞳子の本質へ近づけないながらも、最後まで瞳子が幸せになることを考え、彼女の固く閉ざされた心の扉が、彼女から開かれる事を見守り続け、最後まで見放さなかった愛を瞳子へ与えます。
その愛を持って、瞳子を信頼し、全体の中へ溶け込んでゆきます。
祥子と築き上げたスール制度の絆という本質を手にしながら、
その世界から飛び出してゆく事を、祐巳は瞳子との関係性の中で創り上げます。
特定の人と深く関わり多くを吸収し、与えられていた自分から、社会という全体の中で与える側として自己を確立してゆく姿が、リリアン女学園を全体社会の模範として、描かれていると感じました。
また、この祐巳を中心とした三者の役変わりは、
本来恋人同士であれば、一人の人との関係性の中で変化してゆく過程を、スール制度という巧みな手段を様いて、
祥子と、瞳子、二人を分けて役変わりさせることで、百合小説になりすぎず、自己成長を清らかに描きあげ、これこそがマリ見ての素晴らしい独自性であったと思います。

『マリア様がみてる』は、ただの百合小説ではない! っ、、、 と、自己成長に伴う純粋な愛を感じました。
主題である『マリア様がみてる』。
これは、まさしく主人公である祐巳がマリア様の御心と共にあり、その視点で見つめる世界がストーリーの中にあり、
主題の「マリア」は反転して祐巳自身であると言えるでしょう。
日本では古来から、御天道様が見ている。という表現があり、道徳に背かぬよう、日々を過ごしましょう。といった精神性が根本にあります。
私から見た御天道様は、私以外の崇高な他者の視線なのですが、その視線を想像しているのは私自身です。その御天道様を作り上げているのは私自身と言えるでしょう。
それは言い換えれば、御天道様の視線で世界を見て過ごすという事で、自身が御天道様となることを意味しています。
『マリア様がみてる』は、まさしく他者の視線が自己に成り代わっており、作者の今野さんは、そこまでの世界観をあの作品に現されたことが、私には偉業に感じられ、すっかり打ちのめされました。
主人公の福沢祐巳の本質は、もう女子高生を越えたスーパーマンとなってしまいました。
多数の人物の相互関係の中で特にマリみてに良く現れるものが「鏡像関係」です。
物語を読み進めながら、登場人物達の鏡像関係からの成長が、やがて私自身を振り返らせる大きな渦を巻き起こし、新たな癒しがありました。
この「マリア様がみてる」の登場人物達の深い精神的繋がりは、そのまま、私自身への慈しみへ変わっていって、
まさしく、名作であり、私にとっては間違いなく生涯のベストブックのひとつとなっています。
* * *
ここまで誉めちぎって、最後にひとつだけ。
マリア様がみてるでは、
祐巳を一番の中心としながらも、その他の登場人物視点でのエピソードも沢山ありました。
祐巳にとって、ひとつの大きな世界であった小笠原祥子という存在は、マリみての中で、大きな軸のひとつなのですが、
この祥子視点でのエピソードがもう少し描かれていても良かったのかもしれないと感じました。
祥子自身の抱えていた弱さや、醜さ、恐れや愚かさ。
そしてそれを見つめて受け入れてゆく自己成長を、私達読者は、客観的視点から考察していましたが、
ここがもっと詳しく描かれていれば、祥子からの祐巳への依存性が更に明かになり、
二人の共依存性をしっかりと見た上で、
そこを切り込めた作品になったのかもしれないと思いました。