「新右翼」とは何か。 | 時の過ぎ去るがごとく
2011年08月17日

「新右翼」とは何か。

テーマ:1968年関連

 「新右翼」という言葉があり、いつの間にか自然に使われるようになっている。しかし、そもそも新右翼とは何なのか、またその言葉は何を意味するのかということについては、はっきりと理解されておらず、何となく使用されているのではないだろうか。
 この言葉の由来について、もっともよくある誤解は、新右翼という語を、新左翼という語の右翼版だと見なすものだろう。左翼に新左翼があるように右翼にも新右翼があるだろうというわけだ。確かにそれは間違いではない。しかし、新右翼という言葉の由来からすれば、これは明らかな誤りである。
 簡単にいえば、新左翼という語は普通名詞だが、新右翼はそうではないということだ。新左翼は、旧左翼に対する言葉として登場し、使用されているが、新右翼とは、そうではなく、ある特定の右翼の個別的な形容だったということである。だから、新左翼という言葉には、特定の個別的な組織を示す内実は無いが、新右翼は、特定の個別的な組織を示している。もし、新左翼を「新しい左翼」の謂だとすれば、新右翼はそうではなく、新右翼とは、「新しい右翼」の中の一つであって、新右翼という語がそのまま「新しい右翼」とイ・コールではないということである。
 このことを理解するためには、新左翼の右翼版になる「新しい右翼」と、その中の一つである「新右翼」の違いについての認識が不可欠だろう。
 具体的にいえば、「新しい右翼」とは、1970年代前半に登場した、右からの変革を志向した若い世代の右翼のことである。彼らは、一方では三島由紀夫の影響を受けつつ、他方では同時代的存在でもあった新左翼や全共闘からの同時代的な変革志向の影響を受けていた。そしてそれまでの反共一辺倒で、政府や自民党の暴力的御用聞きのような存在でしかなかった反共派右翼を脱皮し、戦後のヤルタ・ポツダム体制打破の反米反共の維新変革派の右翼として登場したのだった。当然、それまでの防共◯◯とか反共◯◯、あるいは護国◯◯というような右翼とは異なり、何よりもまず「右からの革命」を志向した。そして変革という点では、旧来の右翼よりも、新左翼の方にシンパシーを抱き、その一部は「昭和維新派」として早大では全共闘にさえ参加していた。具体的には、70年代前半の反核防闘争に結集した日本学生会議、日本学生同盟、全国学生協議会の三派に代表される。
 外見的な面だけでも簡単に紹介すれば、今でもそうだが、多くの反共右翼や街宣右翼が、迷彩服を着用して軍歌を鳴らしているのに対して、反核防闘争を領導した彼らは、黒ヘルに覆面という当時の新左翼や全共闘と同じような風体で登場し、まだ軍艦マーチ一色だった右翼の世界において、「青年日本の歌(昭和維新の歌)」を、新左翼が「インターナショナル」を歌うように肩を組んで歌ったのだった。デモも、日章旗と黒旗、そして各組織の旗を掲げ、時には新左翼ではお馴染みのスクラム・デモまでしたのだった。
 現在の数多くの全共闘論の中の第一人者でもあるスガ秀実の『1968年』(ちくま新書)に「あまり知られていない事象だが思想的に重要なものとしては、二章でも触れた『ピース缶爆弾犯人』牧田吉明や、『歴史からの黙示』(田畑書店、七三年)で知られた過激なバクーニン主義アナーキスト千坂恭二、六八年秋に自分たちが作っていた爆弾が暴発して解体したアナーキスト・グループ・背叛社の残党などが、早くから右翼へと接近している」という記述があるが、私が接近したのは、上記の反核防闘争の軸的な存在でもあった日本学生会議(略称「JASCO」ジャスコ)だった。スガの上掲書にも登場する今は政治学教授の牛嶋徳太朗や、現在、『月刊日本』誌の論説員である山浦嘉久が所属していた。
 日本学生会議、略称「日学同」は、反核防闘争への参加をめぐり、主流派の早稲田派と、反主流派の「統一派」に分裂していたが、どちらも基本は「右からの革命」の志向だった。日学同主流派には数年前に自決した三浦重周(日学同の後継組織として重遠社設立)や三島由紀夫研究会や憂国忌を主催する玉川博己がいる。面白いことに彼らは右翼でありながら、日本赤軍の誰某の友人や知り合いであり、決して彼らの活動を反日的というような観点から批判していないことだ。ちなみに、私が去年、出席した、大阪の未来派的な芸術派右翼のトークイベントでの相手役の一人だった、超国家主義・民族の意志同盟の森垣秀介は、三浦重周の重遠社からの離脱組とのことだった。
 この反核防闘争に関連した、ヤルタ・ポツダム体制打倒を掲げる維新革命派の若き右翼は、新しい右翼という自己認識はあったが、新右翼と自称することはなかった。上記の玉川からの書簡によれば「新民族主義」と自称していたとのことであり、牛嶋の口からも「青年民族派」「新民族派」という言葉は聞いたことがあるが新右翼は無い。
 1970年代後半に一水会という右翼グループが登場する。代表は現在は顧問となっている鈴木邦男であり、当時の顧問は、盾の会一期生の阿部勉だった。阿部は私の畏友の牛嶋の運動上の兄貴格の人物であり、私も親しくしていた。ちなみに現会長の木村三浩は、当時はまだ統一戦線義勇軍の一員であり、若々しい良い意味での不良青年だった。
 新右翼とは、この一水会の形容として使用された言葉だった。その意味で、新右翼とは一水会のことであり、記述した反核防闘争に関連した「新しい右翼」のことではないのである。このことは、言葉の定義や内容として正確に理解しておかないと、新右翼という言葉にまつわる現実の正しい理解は出来なくなるだろう。もし、新右翼という語を、ここでいう「新しい右翼」の略表記とするならば、新右翼のはじまりは、1970年代前半の反核防闘争に結集した新民族派の若き右翼であり、1970年代後半の一水会は、第二波となるといえよう。
 ところが、そう簡単に整理出来ないところに、新右翼という語の持つややこしさがある。それは、反核防闘争の新民族派の若き右翼は、必ずしも新右翼という語に好意的ではなく、時には批判的でさえあるということだ。例えば私の畏友の牛嶋の鈴木批判は激しく、加えて彼はそもそも新右翼というものの存在を認めていない。その意味では、新右翼という語は、新右翼的な組織や運動に対して使用されるのではなく、あくまでも一水会の形容詞であるといえるだろう。
 新民族派の若き右翼と、新右翼・一水会の違いは、1970年代の前半と後半の違いも反映していると思われるが、あえていえば、新民族派の若き右翼のブント性に対して一水会は構改派的なところがあるといえるのではないだろうか。それは前者の暴力闘争路線と、後者の言論活動の重視の路線の違いにも現れていよう。
 昨年の阿佐ヶ谷でのトークイベントで、鈴木邦男と何十年ぶりかの再会をした。鈴木とは一水会初期に機関紙『レコンキスタ』への原稿を依頼されたが、なぜか書くことはなく、その後も何かの折に顔を見たりすることはあったが、たぶん言葉を交わしたのはそれ以来だと思う。その時に思ったことだが、鈴木の右翼としての役割は戦後体験ではないかということだった。反戦前・反戦後の戦争継続派といってもいい新民族派の若き右翼は別として、それまでの右翼は本質的に戦前回帰派であり、それは教育勅語の復活志向などにも見られるが、教育勅語などで戦後と対抗出来るわけはない。戦後がカントなら教育勅語などは独断論的迷妄にすぎない。ところで戦後の体験ということで鈴木は右翼的というよりも市民的(あるいは市民的右翼)なのだろう。その市民的なところが、あえていえばブント的な新民族派の若き右翼には気に入らないのだろうが、それはともかく、鈴木は右翼を戦後的に解体したのであり、新右翼の若い者のこれからの課題は、鈴木による右翼の戦後的解体を踏まえ、伝統右翼の戦前回帰的志向を批判しながら、戦後を突破する思想を構築することではないだろうか。右翼は思想ではなく心情であり、赤誠の心さえあればいいという理解もあるが、右翼もまた戦後近代の体験を踏まえなければならないとするならば、思想は不可欠だろうし、思想なき右翼などは風前の灯にしかなりえまい。

※文中の敬称は略。

千坂恭二さんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

コメント

[コメントする]

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス