東日本大震災による原発事故で避難地域となり、

住民の帰還が始まった地域の現状を知るため、

区議会の超党派有志の4人で8月15、16日

福島県・飯舘村に視察に伺いました。

 

飯舘村議会の高橋和幸議員、佐藤健太議員には、

視察先の段取りから当日のご同行まで

ひとかたならぬお世話になりました。

役所や学校、処理施設、農家さんなど

それぞれの訪問先で貴重なお話を伺うことができました。

皆様方の温かなご対応に心から感謝いたします。

 

東日本大震災から8年余り。

当時は分からなかったこと、前に進んだこと、進まないこと

状況の変化と新たな課題、「非日常」の固定化…
わずか1日半の滞在ではあるけれど、

多くのことを聞いて、見て、感じました。

私自身の備忘を兼ねて、ブログを通してお伝えします。

 

今回は、村の概要、住民の避難と帰還、学校などについて。

次回以降は、除染と廃棄物処理、避難農家さんの活動、福島県の取り組みなどについて。

とっても長文ですが、お読みいただけるとうれしいです。

 

【道の駅 までい館】

 品川から飯舘村へは、新幹線で東京駅から福島駅まで約1時間半、さらに南相馬行の長距離バスで約1時間。バスは、復興のシンボルとして2年前にオープンした道の駅「までい館」に着きます。ガラス張りの温室のような建物で、花の栽培が盛んな村らしく、天井から大きなハンギングフラワーが下げられて華やかです。

 

「までい」というのは、両手を意味する「真手」(まで)が語源とされ、「大切に」「丁寧に」「心を込めて」を意味する方言だそうです。

 ここで、高橋議員、佐藤議員と合流しました。高橋議員とはフェイスブック友達ですが、お会いするのはこれが初めて! 

 

 

【飯舘村役場】

 総務課の松下主査から村の概略を伺いました。飯舘村は、原発からは30キロ以上も離れた高原地帯にあり、3月11日の地震による被害は、道路の一部陥没や2日間の停電程度で比較的軽かったそうです。

しかし原発事故当時の風向きの影響で、事故後の15日に放射線量の急上昇が確認されました。それから1カ月以上経った4月22日に、国が村全域を避難区域に指定し、当時約6000人いた村民すべてが避難することとなりました。同時に、避難先の市町村に幼稚園、小中学校の仮設校舎を設置しました。

 

全村避難にあたって、以下のような課題があったそうです。

・他自治体より避難開始が遅かったため、避難先の確保が困難だった

・放射線リスクと生活リスク

・家畜の処分(飯舘村は肉牛の飼育が盛んでした)

・学校

・住民の健康、コミュニティの維持、連絡手段

・役場機能をどこでどう維持するか 等々

 

 村民の多くが仮設住宅やみなし仮設に入居したあと、6月には村役場を福島市内に移転。

復興の取り組みとして、ばらばらに避難した村民への情報伝達のため広報誌の発行やタブレット端末の配布をしたり、被ばく検査や健康検査を実施。国直轄事業として宅地や家屋、道路の除染が進むのと並行して、住民の帰還に向けて公共施設の整備が進められました。

 

 除染率100%となった2017年には、一部地区を残して避難指示を解除。帰還のためのインフラとして、村営住宅を新設し、診療所、学校も再開。事業所も少しずつ戻っています。

 

とはいえ、避難指示解除から2年経った今年4月の段階で、村民約5600人のうち、村内居住者は1200人余りと、約2割。コミュニティの維持が危うい状況です。医療・介護、公共交通や廃棄物処理、産業復興なども課題です。また、国の定める復興集中期間は2020年度末となっており、復興財源がどの程度確保できるのかが大きな課題です。

 

と、ここまでが公式なご説明です。


 

 

 とはいえ、数字からは読み取れない現実に溢れているようです。

 例えば、田畑の除染率は100%。でもあぜ道は対象外。だから結局耕作できない場所がたくさん。

 1200人が帰還したと言っても、実際には福島市などの避難先に居住実態があり、昼夜とも村内で暮らしているのは数百人程度…

それでも、時間とともに少しずつ住民は戻っていくのではとも思っていたけれど、

避難者への各種支援が先細りになれば、逆に村の住民票を抜く人が増えていくのではないか…仕事、学校、子育て、介護、それぞれの家族の事情…
「避難」と「帰還」。どちらも重い選択なのだと思う。

 



【議会のこと】

 当時の議会の動きも、資料に基づいて簡単に。

2011年

3月11日 東日本大震災

3月18日 災害対策特別委員会設置

4月22日 村全域に避難指示

6月1日 議員報酬20%削減

6月21日 議場を移転

*2011年3月から1年間にわたり、災害対策や除染、復興などに関する意見書を国等に提出。

*年4回の定例会のほか、臨時会も毎年5~8回開催。

 

 とても簡単な引用ですが、未曽有の災害に直面したとき、議会はどう動くのか、引き続き学んでいきたいと思います。


 

【学校】

 飯舘村には、小学校3校と中学校1校がありましたが、原発事故後にすべて、村外の仮設校舎に移転。その後、飯舘中学校周辺の除染を徹底的に行い、大規模改修をして、避難指示解除翌年の昨年4月に小学校3校と中学校が同居する形で、地元での授業が再開しました。来年には小中一貫の義務教育学校となる予定です。、幼保一体の認定こども園も併設されています。

 

広いオープンスペースには天井までの木。

山林は除染の対象外。子どものころから森の間で駆け回って育った大人たちの、少しでも子どもたちに木と親しんでほしいという願いでもあるそうです。

 

 

ランチルームの脇には「GBカフェ」。
近隣のジジババ(GB)が立ち寄ってお茶を飲めるスペースです。

このほか、地域の方と郷土料理などを作れる食育ルーム、高天井の階段教室、木製のらせん階段やロフトのようなスペース。

遊び心とつながりの場にあふれた、とても素敵な校舎でした。

 

 

 約400人が通える校舎ですが、在籍する幼児・児童・生徒は4月時点で計114人。その多くは、村外から通学バスなどで通っています。

通学バス代や制服代、その他一切の費用は、今は無料。でも、今後、復興予算が減って自己負担分が増えてきたら…。
ここにも、時間とのたたかいがあります。

 

同じ敷地内にある認定こども園。

 

学校の向かいにある広大なスポーツ公園。全天候型400mトラックや人工芝のサッカーコート、LED照明をそなえた球場、テニスコート、グラウンドゴルフ…26億円かけて改修しただけあって、素晴らしい設備です。村外からの利用も多いそうです。


 

 最後の写真は、村内の別の地区にある、旧・村立飯樋小学校。15年ほど前に改築された校舎は、木材を多用し、椅子や机はすべて木製。敷地内の銀杏の木をつかった掘りごたつや隠れ家的空間など、従来の学校を超えた魅力ある空間で知られていました。



 

 学校は統合され、誰も帰ってこないままひっそりと佇む校舎。でも手入れが行き届いているのは、いずれまた、何かに生かそうということなのでしょう。その日が、来ますように。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。次回は除染と廃棄物処理などについて。