去る9月20日、藤木孝が突然世を去った。享年80。1961年、「24000のキス」を引っ下げ、ツイスト歌手として華やかにデビューした当時からよく知っていただけに、哀しみひとしおである。

 

 1962年、私は東京新聞夕刊に「芸能プロほど素敵な商売はない」(3月8日~5月14日、全37回)という読みものを連載した。その冒頭第1回、第2回に登場してもらったのが、渡辺プロダクション所属の新人藤木孝であった。古いスクラップ帖からその2回分をとり出し、ここに転載する。なお第1回目の文中に登場する水谷八重子は先代である。念のため。

 

 藤木の多彩な芸歴の中でとりわけ私の記憶に残るのは、『マイ・フェア・レディ』初演(63年9月、東京宝塚劇場)のフレディだろうか。イライザにひと目惚れし、彼女の住むヒギンズ教授邸の前で心を込めて「きみが住む街で」を歌うフレディ藤木の、なんと初々しかったことか。

 

  フレディに扮した藤木孝。『マイ・フェア・レディ』初演パンフレットより。

 

 

         ♫人が立ちどまって 見ようと かまわない

           ここだけが ぼくの いたい場所だから

                        (訳詩 若谷和子)

 

 持ち歌たった1曲、でもあの演技、あの歌唱は〝勲章もの〟でしたよ。心からご冥福を祈る。

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 東京新聞連載

 「芸能プロほど素敵な商売はない」①

   コネに恵まれた藤木孝

 

 最近、めきめき売り出している歌手の一人に、藤木孝がいる。はたからながめていると、あれよあれよという間に、スター・ダムにのし上がったかに見えるが、もちろん、そうやすやすとことが運ぶわけがない。

 

 新しい朝が来たら、また一人、スターが生まれていた――などというのは、もののたとえ話であって、売り出しのその裏側では、芸能プロダクションが、四方八方に作戦の網の目を張りめぐらせているものなのである。

 

 藤木孝を人気歌手に仕立てたのは、ザ・ピーナッツ、スマイリー小原とスカイ・ライナーズなどの売れっ子たちを一人占めにしている渡辺プロダクション。

 

 歌手志望の若い人たちには「スターの座をねらうんだったら、ナベ・プロ(芸能界では渡辺プロをこう呼んでいる)に入れ」という合い言葉さえあるほどで、ともかく、渡辺プロのような強力な芸能プロダクションにもぐり込むことが、いまや売り出しの第一条件になっているらしい。

 

 プロダクションに入れてもらうためには、入学試験や就職なみに、まずコネが必要だ。縁もゆかりもないタレント志望の青年が「テストしてください」とたずねたところで、忙しいプロダクション側がいちいち取り合ってくれるはずがない。実力の世界とはいえ、芸能界でも、コネはあったにしくはないというわけである。

 

 藤木孝が渡辺プロの門をたたいたのは、昭和三十五年春。なんと水谷八重子の紹介だった。八重子が藤木売り出しに一枚加わっているというのは、ちょっと奇妙な因縁だが、彼の養父が、たまたま熱心な彼女の後援会会員だったといういきさつかららしい。

 

 八重子と渡辺プロとの関係は、いうまでもない。一人娘の良重の夫君、白木秀雄が渡辺プロの秘蔵っ子である。双方の仲が浅からぬことは、想像するまでもなかろう。

 

 紹介者は大物であればあるほどいいといわれるが、藤木が八重子に仲介の労を取ってもらえたことが、他人から見たらどんなにうらやましいことか――本人の考える以上の幸運だったと思う。

 

 一人前にジャズをこなす上に、東宝芸能学校で踊りもみっちりたたき込まれて来た藤木は、売り出す側にとっても魅力あふれる素材だったが、さて、どんなかたちで芸能界に送り込んだらいいか。

 

 藤木の入社したその日から、こんどは、同プロ社長渡辺晋氏の藤木研究がはじまったのである。同社長はさいわいいまだにシックス・ジョーズのベース奏者をつとめるプレーイング・マネジャーでもある。歌手の個性を分析するのに、こんないい立ち場に立てる人は、そうざらにいるものではない。渡辺プロダクションがスター育成にすぐれた手腕を発揮するのは、なにより、渡辺社長の実戦で得たデータがしっかりしているからであろう。

 

 藤木がこんなに騒がれるずっと前から渡辺氏は「彼の魅力は、からだ全体で表現するリズム感ですよ」といっていたが、この分析の正しさは、ツイスト・ブームに乗ってあばれまくる彼によって、見事証明されたのである。

                                  (1962年3月8日)

 

掲載時の東京新聞の記事です。

古いスクラップ帖からのコピーで不鮮明です。ご容赦ください。