”坂東玉三郎  越路吹雪を歌う 「愛の賛歌」”というコンサートが行われました(4月12日、NHKホール)。そのパンフレットに拙文が掲載されました。


  なお、このコンサートは5月13日、神奈川・ハーモニーホール座間、7月28日、宮城・川内 萩 ホールでもおこなわれます。

 

https://www.tamasaburo-bando.com/performance

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  越路吹雪と岩谷時子は、スポーツにたとえればテニスの女子ダブルスにおける無敵コンビといったところだろうか。このふたりほど息の合った、強靭な絆で結ばれたペアは、昔も今も芸能界に存在しない。私は断言する、これからも現われないだろう、と。

 

  越路、1924年(大正13年)、岩谷、1916年(大正5年)生まれである。年齢の上では越路が8歳年下なのに、一見したところは岩谷が妹のようだった。それぞれ若いときから死ぬまで、越路は大姐御、岩谷は童女の風情を保ち続けた。

 

  お互いの性格も正反対、ただし表向きとは真逆だったのではないか。越路はやんちゃで子どもっぽく世間知らず、岩谷は世間のことはすべてお見通しという人生の達人というのが、長年、交遊のあった私の見立てである。

 

  プロフェッショナルとしての彼女たちにはひとつの共通点があった。ともに二枚看板を掲げて人生の荒波を乗り切ってきたという点である。越路はシャンソン歌手とミュージカル女優、岩谷は越路の個人マネジャーと作詞家、ふたりは巧まずしてそれぞれの二枚看板を使い分けて人生を全うした。

 

  越路にとって岩谷は一種の〝専属〟作詞家であった。専属作詞家?を持つという幸運に恵まれた歌手、女優は越路のほかにひとりもいない。しかし、岩谷が売れっ子作詞家になってからも、越路は岩谷のほかの仕事を妨げることは一切しなかった。一方、岩谷も常にマネジャー業を優先させた。いったい、なぜ?

 

  ふたりはお互いにもっとも必要な相手同士だったことを知り尽くしていたからではないか。越路は岩谷以上に自分にぴったりの作詞家は存在しないことを、岩谷は越路以上に自分の作詞を生かす歌手・女優は存在しないことを、じゅうぶん過ぎるほどじゅうぶんに承知していたからだ。

 

  ひとつ大きく違ったのは、越路が56歳の働き盛りに世を去ったこと、岩谷が97歳という天寿を全うしたことである。ふたりは天国でも誰もが羨むペアにちがいない。