アーカイヴより 「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」を作曲した鈴木道明氏とは | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba
2012年11月12日(月) 12時21分24秒

アーカイヴより 「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」を作曲した鈴木道明氏とは

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八代亜紀の新アルバムをとり上げたとき(10月29日、11月7日)、昔のヒット・ソング「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」が文中に登場しました。

 この曲はいったいどんな曲だったのか?この歌が世に出た当時、私が書いた文章が出て来たので、ご参考までにお読みいただければと思います。


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 昭和三十七年(1962年)のことである。

 ひとり暮しだった鈴木道明氏は、日曜日だというのに愛車をガレージから引き出して食事に出掛けた。小雨がけぶる夕暮れどきで、フロント・グラスのワイパーが、忙しく動いていた。

 「ちょうど表参道あたりだったかな。日曜日だけど、ゆきつけのレストランは、やってるかなと思いながらハンドルを握っていると、あのメロディーが、自然に湧いてきたんだ。もちろん、歌詞といっしょにね」

 こうしてはからずも生まれたのが、「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」というわけである。

 この曲は、越路吹雪、日野てる子、和田弘とマヒナ・スターズ、ブレンダー・リー、ロス・トレス・ディアマンテスらが相次いで吹き込んで、昭和四十年を飾るヒット・ソングのひとつとなったが、実は最初に歌ったのは、水島照子という、あまり有名でないジャズ・シンガーだった。

「うちの番組でテリー(水島の愛称)に歌わせたら、それを聞いたレコード会社が、だれの曲か知らないが、レコーディングさせてくれって申し込んできたんだ。」

 鈴木道明氏の口から「うちの番組」という言葉が出たが、それというのも、氏が東京放送のテレビ・プロデューサーだからである。「ワン・レイニー・ナイト」を初めとして「夏の日の想い出」「赤坂の夜は更けて」「女の恋ははかなくて」などを作詞作曲した鈴木道明氏が、TBSテレビの編成局次長、第二演出部長の要職にあるというのは、その世界の人にはともかく、広く一般のファンには知られていないことではなかろうか。

 しかし、熱心で注意深いジャズ・ファンだったら、あるいは“制作・鈴木道明”というタイトルを、なにかの番組で見た記憶があるかも知れない。とくに、ハリー・ベラフォンテ、ナット・キング・コールなど、大もの外来タレントのワンマン・ショーは、鈴木氏の独壇上で、なかでも好評だったベラフォンテのショーは、何年か前の大みそかの晩に再放送されたくらいだから─。

 また流行歌の世界ではタブーだったベスト・テン形式をはじめて採用した「TBS歌謡曲ベストテン」も、鈴木氏の手になる番組である。

 鈴木氏の立場が立場だけに、氏が自分の職権を乱用して自作を歌手に強制するのではないか、と勘ぐる了見のせまい人もいる。なかには、鈴木道明氏の歌を歌うことが歌手として出世の早道だ、なぜなら、氏はTBSの実力者だからなどと、見てきたようなウソを書く芸能週刊誌もある。こういう浅はかな誤解に鈴木氏は、いちばん腹が立つそうだ。

 この種のゴシップが、まったくの推測に過ぎないことは、「ワン・レイニー・ナイト」にレコード会社が目をつけたとき、どこも道明氏の作品だと知らなかった事実からもはっきり証明されようというものだ。

 道明氏はいう。
 「ぼくが、自分の歌を歌手に歌わせてみようと思ったのは、ほかでもない、日本の大衆音楽のレベルを少しでも上げたいからだ。自分でテレビをやっていて、ひどい流行歌が氾濫している現状に、ほとほと愛想がつきたんで、つたない自作を発表する気になったんだよ。ぼくは、日本の流行歌とテレビを憂えて、やっているのに、他人は私利利欲のためだと、とるんだからなあ」

 先ほど触れたように、鈴木氏は、数多くの外来音楽家を手がけたテレビ・プロデューサーである。氏は、外来音楽家の番組を制作するたびに、巨額の外貨が海外に流出することを嘆かないではいられなかった。輸入が過剰で、輸出がほとんどないというショー・ビジネスの世界のアンバランスに我慢できず、外貨の稼げる日本製のメロディーを書いてやろうと思ったことも、氏の創作動機となっている。

 「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」は全世界で百種類からのレコードが出まわっているというから、氏の理想は、一歩一歩現実に向かいつつあるわけだ。

 ところで、冒頭に紹介したように、鈴木氏の歌は、ひとつひとつ実感にもとづいている。西田佐知子や島倉千代子の歌っている「赤坂の夜は更けて」は、夜の赤坂界隈のものうい雰囲気を伝えてあまりある曲だが、氏の頭にこのメロディーが浮かんだのは、仕事があって会社のデスクにおそくまで残っていたときだったという。(いうまでもなく東京放送は赤坂・一ツ木通りにある)

 「会社を出たとき、時計を見たら十一時十五分だった。銀座で一杯やりたいけれど、十一時半がカンバンの銀座にゆくには、時間がない。どうしようかなと思いまどっているときに、でてきたんだ」

 マヒナ・スターズのヒット曲、「女の恋ははかなくて」を作ったときも、会社でおそくまで残業していたときだった。人気のない部屋に、ひとりぽつんといると、たぶん「東芝日曜劇場」カメリハでも終わったのだろう、池内淳子が石井ふく子プロデューサーといっしょに入ってきた。

深夜、編成局の片隅から、いくぶん疲れの見える池内淳子を暼見したとしたら、道明氏でなくても「柳沢真一との結婚生活に破れてからの彼女は、しあわせなのだろうか。仕事はうまくいっているけれども、私生活では幸福なんだろうか」と思わずにいられないだろう。「女の恋は」のモデルが池内だというのではないが、深夜、垣間見た彼女に触発されて、この歌ができたことだけは、間違いないようである。

 鈴木道明氏の仕事の確かさは、戦前戦中からクラシックの勉強をし、戦後は深くジャズに傾倒したというキャリアに根差している。氏のメロディーが俗流流行歌の及ぶところでないのは、氏の音楽的教養のしからしむるところだが、このことと同時に、私は、氏の歌が、ことごとく氏の都会人としての実感に裏打ちされているという事実を重視する。

歌は教養だけで書けるものではなく、教養以上に、書く人の肌で感じとったフィーリングが、キー・ポイントになるものだから─。そして、ドウメイ・メロディーが次々とヒットしているということは、つまりは氏の実感を共感できる人が、それだけふえたということではなかろうか。

 鈴木氏のような都会派で、おとなの歌を書く作詞、作曲家の登場は、それだけ日本の流行歌界が変貌しつつある証拠でもある。
(名古屋テレビ広報誌『若い11』1966年3月号掲載、のちに単行本『流行歌の世界』に所収)


(付記)
 鈴木道明さんは1920年生まれ。ドウメイさんの愛称で親しまれていた。本人の語ったところによると、早稲田大学在学中、水泳部で鳴らしたそうだ。世が世ならオリンピックに出場できるくらいの腕前だったとか。

 90年代初めまで都内の室内プールでよくお見掛けした。さっそうたるクロールだった。

 1年ほど前、氏をよく知る人から、「お元気で泳いでおいでですよ」という噂を耳にした。あの見事なターンをもういちど拝見したい。

 なかにし礼さんの小説で、TBSテレビの名物プロデューサー渡辺政文さんを主人公にした『世界は俺が回してる』にも、渡辺さんの親分として実名でひんぱんに登場する。

 第50回日本レコード大賞功労賞受賞者でもある。


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