今週はペギー葉山で始めたので、ペギーで締めたいと思います。以下は、『ありがとうすてきな歌たちペギー葉山全集』(キング、1992)のために、私が執筆した文章です。



 ペギー葉山の歩いてきた道をそのまま辿ると、そっくり戦後ポピュラー音楽史になる。言い換えると、もしも彼女の登場しない戦後ポピュラー史があったとしても、それは、どこか間違っているということだ。

 本名小鷹狩繁子の彼女がどうしてペギー葉山と名乗ることになったのか。その間の事情を語ることは、そのまま昭和二十年代の日本の音楽状況のみならず、社会情勢そのものを解き明かすことになる。ペギー葉山という芸名自体が、敗戦後の日本を象徴しているのである。

 なんといっても、進駐軍がやってきて、すべてがアメリカ一色に塗り潰された時代である。ファースト・ネームがあちら式というのは、ちょっと日系二世風で格好よかった。アメリカ人との付き合いができたりすると、彼らから横文字の愛称を貰うことが往々にしてあったようだ。ましてや進駐軍のクラブが仕事場のジャズ・ミュージシャンたちが、好んでそれ式の芸名を名乗るのは、ごく自然のなりゆきだったのである。

 本人に確かめたことはないが、伝聞によると、ペギー葉山は女学生の頃、アメリカの映画「我が道を往く」を見て、ビング・クロスビーの歌に感激し、その道を志したということになっている。

 先生はティーヴ・釜萢(かまやつひろしの父君。この人はれっきとした日系二世だから、こう名乗ってもおかしくない)である。
 やがて、ペギー葉山は、この先生の推挙で渡辺弘とスター・ダスターズの専属歌手となる。実はティーヴさんもこの楽団で歌っていたのだが、パートナーの女性歌手だったナンシー梅木(のちにブロードウェイ・ミュージカル「フラワー・ドラム・ソング」で主役をつとめたミヨシ・ウメキ)がやめたので、その後釜に弟子のペギーを推挙したと聞いている。

 当時、渡辺弘とスター・ダスターズは、今の新橋第一ホテルの中にあったアメリカ軍将校クラブ、などといっても、今の若い人達にはピンとこないだろうが、日本人が入場できない、そういうクラブが当時はあったのである。
 ということは、すなわち、当時の一流ジャズ・オーケストラ、スター・ダスターズの専属歌手となった彼女は、毎晩、アメリカ軍人とその夫人たちを相手に歌っていたということだ。ペギーは日本にいながらにして本場のアメリカでジャズを歌うに等しい環境にいたことになる。

 この時代の話をし始めるときりがないので、後ははしょることにするが、おりからのジャズ・ブームを背景に、彼女はレコード歌手としてもデビューを果たす。

 実はペギーと私は同世代、いや、なにを隠そう同年齢である。少年ジャズ・ファンだった私は、リアル・タイムで彼女の「ドミノ」や「キス・オブ・ファイア」を聞いている。このふたつの歌を、私は輝く同世代の星が歌うジャズ・ソングということで、格別の思いを抱いて耳を傾けたものだった。

 戦後ジャズ歌手のはしりだったことの他に、私は彼女の足跡の中で次の二つの点を強調しておきたいと思う。

 そのひとつは、早くからミュージカルという新分野に目を向けていた、その道のパイオニアであるということ。昭和三十年代、彼女は自らのリサイタルのゲストに、オペラ歌手でミュージカルに意欲を見せていた立川澄人を迎え、「ウエスト・サイド物語」の「マリア」や「トゥナイト」を歌っている。

 本格的国産ミュージカルの第一号「可愛い女」の主役を演じたのもペギーである。昭和三十四年、大阪フェスティバル・ホールで上演されたこの作品は作・安部公房、作曲・黛敏郎、演出・千田是也らによって作られた。共演者には、立川澄人、栗本正、横森久らの名前が見える。

 続いて二つ目は、これまた最も早く日本の大衆歌謡の中にジャズのイディオムや感覚を取り入れた歌手だということである。その成果が「爪」であり「学生時代」であることは言うまでもない。

 ペギー葉山がこのような路線を開拓したについては、青山学院の先輩で、優れたジャズ・ミュージシャンであった平岡精二の存在を忘れてはならない。今日の流行歌の主流は、明らかに演歌ではなく欧米ポップスの影響を強く滲ませたもの(その中には、ポップス歌謡もニュー・ミュージックも含まれる)だが、このジャンルに鍬を入れた最初のコンビはペギーと平岡に他ならない。

 もちろんペギー葉山の最大のヒット曲は「南国土佐を後にして」である。私はこの曲のヒットの最大要因は、日本的抒情の色濃い曲調を、彼女の西欧的フィーリングで染め上げたところにあると見る。

 この歌のヒットした昭和三十四年は、フランク永井、松尾和子の「東京ナイトクラブ」、スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」、水原弘の「黒い花びら」が世間を賑わせた年でもある。当時、大衆は流行歌にバタ臭い要素を求めていたわけで、その時流に彼女の「南国土佐・・・」の唱法がぴったり合ったと言えないだろうか。

 ペギー葉山は、この四十年間いつもポピュラー音楽界の先頭に立って歩んできた。それだけに、もし、彼女の今日までの軌跡を十分に検証できれば、それは、これからの日本の大衆歌謡がどう進むべきか、その方向を暗示するものになるにちがいない。


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