≪家族≫No.①を読んでから読んでネニコニコパー



ライトに、思いっきり照らされながら誕生してきた私ニコニコクローバー
と、同時に21才だった母(ひさ)は その病院での状況に怒りに震えたワケだが…ガーン


私には、育ての親と言っても過言ではない 叔母(好子)の存在が大きいニコニコ

好子(ヨシコ)叔母は、当時17才!!
父の妹である。


私は、いや私だけじゃなく家族みんな「よっちゃん」と呼んでいる。


よっちゃんは、凄い人だビックリマーク


私を育て、12年後に生まれた弟を育て、更に2005年に生まれた弟の娘(現在4才)にまで「よっちゃん、よっちゃん」と慕われている。


なぜ、よっちゃんに 姉弟共に育ててもらったに等しいかというと、私の時と弟の時とは事情が違うビックリマーク

先ずは、私の時の事情からねニコニコ



私が、母のお腹に居た時に 母は 《第4回NHKのど自慢》で優勝した。
その時の歌は[フランチェスカの鐘]二葉あき子先生の曲だった。

母の一家は上海からの引き揚げ者で、祖父は その引き揚げ者の方々を励ましたり応援したりしていて、その資金繰りに母は…のど自慢荒らしのような感じで働かされていたワケなんだけど、引き揚げ者の方々の応援にまわす分、家族の資金繰りは困難だったらしく、母は どなたかにいただいた男物の下駄で地方戦から優勝戦まで大会に参加していたらしい。

当時は、ラジオしかなかったから…後に そのラジオを聴いていた方に「お母さんが出ていらっしゃる時に、必ず元気な下駄の音が聞こえてね」と言われて驚いた事があるニコニコ


NHKのど自慢で 日本一になってから、レコードデビューというのは 当時の流れだったようなのだが、母はイキナリ行方不明になり 新聞は「松本ひさ行方不明」と書き立てた。

時代が、敗戦の傷もまだ生々しく 心に元気を取り戻す為に、歌が大きな役割を果たしている時だったから余計に大騒ぎになったんだと思うガーン

そんな騒ぎをヨソに、母は父と駆け落ちしていて…お陰様で 私が無事ライトを浴びながら生まれたワケで‥ニコニコチョキ


結婚してからは、父と母は職場が一緒になる。
現在の名古屋にある[東海ラジオ]の元になった[ラジオ三重]は、当時、津にあった。
もともと、父はバンドマンでラジオ三重の専属バンドの一員で、母も専属歌手になった。

ラジオ局から、いろんな所に慰問に行ったり 番組制作はモチロンだし‥ショーをしたりと、母の仕事はカナリ忙しく…まだ母乳が必要だった私を連れての仕事場には、必ず よっちゃんの姿があった。

何しろ、初孫・初姪っ子の私は ご想像の通り 家族中にチヤホヤ可愛がられていたから、よっちゃんは大変だったと思う。

子供の時の私の目から、よっちゃんを観察した時に、『よっちゃんは、家を守る人』という印象が強かった。当時まだ10代にもかかわらず…。

よっちゃんは、「お母さん」の面倒も見ていた。
私にとって祖母になるのだがビックリマーク

父方の祖母〔乃ぶ〕↓



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祖母は、私から見ても美しい人だった。
ただ、身体が弱かったのね…。

よっちゃんは、母親の世話と同時に 上にいる父達 3人の兄貴達のめんどうも、子供の頃からみていたのだ。



長くなるので、≪家族≫No.②は いったんここで…続きの≪家族≫No.③を、お楽しみにね~ニコニコパー



にゃー静江ドキドキ