【非エリート的生き方の効能】
「日本の選手たちは、試合に負けてもまだ明日があると考えている。プロサッカー選手には、負ければ明日はない。向上心のない選手は、自分がプレーする環境もどんどん下へと下がっていくだけだ。」
とオシムは言う。
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常に力を出せるヤツ。日々戦えるやつ。他人に勝る戦う武器を持っているやつ。わき目も振らず戦うやつ。
求めるものは、
結果次第で明日の居場所が決まる環境で勝ち抜けるヤツなのだろう。
そんな人を育てること。

入ったら、待遇を保証され何年も面倒見てくれる場所、試合出場が保証されている高校ではそういう精神をつくりあげるには環境として大変だ。
J下部ユースのある監督が言う。
「日本でも、数ヶ月で結果が出ない選手は、下部リーグに参加するチームや高校へ移籍し、そこで頑張りチャンスを得、逆に高校チームから新しい可能性を受け入れるところでなければ、選手も成長できないし、特別なところとならない。サッカー界全体がそんな選手を生かし成長させれる育成制度にならないと」と。

万人にチャンスがある、流動的な組織が必要だ。
選手の入れ替えのないチームは淀む。
常に1番から11番がパフォーマンス関係なしに試合に出てはチームに水は流れはしない。
一旦選ばれたら身分が保証される、それは、年功序列賃金制度、終身雇用、間口が狭く出口が広い大学など、日本の悪癖のスポーツ版だ。

エリートといえばバルセロナのカンテラ。
イニエスタ、シャビ、メッシを生んだのは、世界中から何百人のとんでもない才能を集め、入れ替え、入れ替えの風通しのいいなかでハイタレントが育てられた結果だ。

エリートを礼賛しているわけではない。
非エリートが最後は日本と世界を支えるている中心であることに間違いない。

イメージ 2非エリートの素晴らしい生き様がある。
ブランド物の財布持っている高校生は絶対に大成はしないだろう。
大成する選手は、自分の持っている財布をブランドにすべく、わき目もふらず上を見て暮している人間だ。
自分を他のブランドで着飾らない。
もし、「静学サッカー」を「ブランド」と勘違いしてここを選ぼうとするなら、それは絶対にやめたほうがいい。

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見つめる視点は違うが日本サッカーの育成について含蓄ある論文がある。
リンクしておこう。
【伸びない木々と、生えてくる雑草と】
(エルゴラッソ2010高円宮杯特集・川端暁彦氏)
http://blogs.yahoo.co.jp/abcd59633/26611916.html

以下抜粋
05年以降、日本サッカー協会が目指してきた方向性は“階層化・エリート化”に舵をとった。
―略―
元技術委員長の小野剛氏は「高いレベルのチームは高いレベル同士で……」と講演で語っていたが、これは「低いしベルのチームは低いレペル同士で」というニュアンスも内包していることは無視できない。
つまりその目的の一つは、(階層が)上のチームが下のチームと試合をする機会を減らすことでもある。 
階層化の進展と同時に、クラブと高校が垣根なく競うカップ戦、“高円宮杯”は終わった。
―略―
そもそも才能は見えない

 W杯の話に戻るなら、あの場に立った日本代表にどれだけの“エリート”がいたのか。階層化を進めることで誕生するエリートチームに有力選手が集まる……と言っても、中学卒業時に“有力”だった選手があの中に何人いることか。
阿部勇樹はそうだろう。駒野友一もそうだ。遠藤保仁もそうかもしれない。大久保嘉人もそうだと思う。では、長谷部誠はどうだろう?長友佑都は愛媛のセレクションを突破できなかっだのではないか。今野泰幸は仙台のユースから“落第”と言われていなかったか。本田圭佑はG大阪のジュニアユースでレギュラーにもなれていなかった。川島永嗣が初めて全国区の選抜に入ったのは高校3年のときだ。中村俊輔や中澤佑二については、指摘するまでもない。
なぜ彼らを発掘できなかったのかというのは興味深い命題ではある。
「日本人指導者の見る目がある、ない」といった程度の低い話をしたいわけではない。
カフーも、ダービッツもカーンも、サネッティも落第生だった。サッカー先進国でも選手の才能を見誤ることなど当たり前のように起きている。
若い選手の才能は、分からない。
見誤る。
むしろこれは、前提である。        
“階層化”というのは強化のための一つの方向性だろう。
ただそれは本来、人材の流動化とワンセットでやらないと“底下げ”につながる危険な手法だ。
トレセンやセレクションを経由して出てくる有力選手は、本当に才能のある選手と決してイコールにはならない。
―略―
伸びない木々がある

W杯の代表に非エリートが多かったという事実から、「才能が発掘されていなかった」と見る人もいれば、「才能のあるエリートを伸ばし損なった」と見る人もいる。
個人的には、後者も一理あると思う。
今回のW杯に若手で選抜された選手たち(本田、長友、岡崎慎司、内田篤人)が軒並み非エリートであるのが単なる偶然だとは思わない。
どうにも協会を中心としたエリート教育がうまくいっていないという思いはある。
―略―
代表に選ぱれる、もっと以前の段階での“何か”に問題があるのだ。
日本のエリート教育がどうしても選手や親の特権意識と結び付いてしまう以上、限界もあるとは思う。
特にエリートと認定されたあとに、U-15~U-17にかけて、U-17W杯を目指した厳しい競争にさらされることのない奇数年生まれのエリートたちの育成には、特に難しい面がある(U-17W杯が2年に1度であるために起こる現象だ)。
1989年生まれの、あるエリートの父親から「息子の将来はこんなにバラ色だ」と自慢されたことがある。
自分はやんわりと「この年代で選ばれている選手のほとんどは大成しませんよ」と応じたのだが、「それは昔の話。今は選手を選ぶノウハウが確立しているから違う」と強硬に反論されたことがある。
協会の指導者にそんなことを言われたのだそうだ。
残念ながら、その選手はドロップアウトしていったわけだが……。
エリートプログラムと狭問の世代の年代別代表は、もう一度考えたほうがいい。
階層化していくのが既定の方向性ならば、どうやってエリートを育てるのかは重要な課題だ。
技術や戦術、フィジカルもそうたが、もっと根本的な部分についても。
同時に雑草を見付け育む努力も、階層化する以前よりも深く考える必要がある。