君たちはもう15歳を越えている。だからよく考えてみてほしい。
なぜ、「静学でサッカーをやっているのか」
小学生中学生の時は、楽しく、褒められてはうれしく、100%の親の庇護で、親のアドバイスや助けで、親の意思が大きく左右して、サッカーを続けられたてきたはずだ。続けれたのは親のおかげだ。
15歳になり、様々な選択が目の前にある。
しかも、その中から、今度は自分で取捨選択し、多くを排除して、一つを選択し、親にお願いして自分の目標と夢を据え「やりたい」と宣言する時だったはずだ。したはずだ。
もう一回問うてみてくれ。
今やっているサッカーは、楽しみでか、他人より少し得意だからか、自慢するためか、女にもてるためか、テレビに映りたいためか。そんなことか?
この年代、見た限り楽しそうなことは山とある。異性の存在然り、様々な娯楽、友人と多くの多趣味な時間を共有すること。その中での自分の選択だということ。
選択も自由だ。適当な惰性で無理して厳しい事をやることはない。
考えろ。
青春は一回。この高校生活も一回。
だが人生そう長くはない。むしろ短い。
やれることはたかが知れている。
人はいつか死ぬ。
その運命はいつ訪れるかは誰にもわからない。
いつ直面するかはわからない。
言いたいことは、大人をむかえようとする君が、
その時に悔い残さないように一生懸命生きているかということ。
そのために日々はある。
そのために今日はある。
どうせやるなら「静学のサッカー」を、性根据えて、魂込めて日々挑むんだ。
起こる軽い幼稚さを排除し、この夢に、自分の人生に何かの証を残そう。
やりきって人生の力を今獲得するんだ。今しか自分のものにならぬ力だ。
それが君に求められている。例えピッチに立とうが立つまいが。
時が来て、
命が途切れる時、その瞬間は、定まらぬ軽薄な道を排除して生きることのみが財産だと知る時だ。
栄冠や結果など、過ぎれば忘却され、自分には役に立たぬ昔の栄光の自慢と見栄しか残らぬ空しいもの。
残るのは、ただ、ただ、やりきった自分自身。
必要なものは、やりきった日々、親にも友人にも誰に見られても誇れる真剣な日々。
それが豊富なヒントと夢の実現を可能にする。
戦争で生死を直面し、友人の多数が敵味方となって、いがみ合い殺戮しあった痛苦の「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」経験を持つオシムもこういう「人生は100年も続かない。選手のサッカーキャリアなど短いものだ。その短い選手生命の中で、何か歴史に残ることをしよう」と。人生の尊さを重く語っている。
我々も生きたいものだ。ランディ・パウシュのような人生を。
そんな豊かな生きざまを。人生の最期を迎える時にでさえ、なお名誉や欲望に動揺しないやりきった人生を。