奥原希望の実家で見た印象的な居間。
“思考力”が編み出した銅メダル。


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ナンバーWEB

 オリンピックでもつぶやいていた。

「この舞台に立てることに感謝して、思い切り楽しもう」

 そう自分に言い聞かせ、最後に「よっし」で締めたあと、コートに入る。これは「考えないと勝てない」と言ってきた奥原希望が辿りついた、勝利を引き寄せる「儀式」だ。

 幼い頃から、自分の目標は何なのか、そこに達するためにはどうすればいいかをずっと考えてきた。そうすることで、夢はいっそう明確になり、困難にも立ち向かえる。周囲にどれだけ支えられているか、深く感じるようにもなった。

 156cmという小柄な体躯、2度にわたるヒザの手術――。

 いずれも乗り越えるための方程式は難解だったはずだが、培ってきた思考する姿勢が“銅メダル”という答えを導きだした。

 かつて長野にある奥原の実家を訪ねたことがある。農家も兼ねる広い家の居間には、偉人の格言や節目に記された決意表明がびっしりと貼られていた。

「練習は裏切らない」

「インターハイ優勝。そのために、感謝、あいさつ、礼儀を忘れない。小さいことにも手を抜かない。迷ったら苦しい道を選ぶ」

「苦しみの向こうに喜びがある」

 父親の圭永(きよなが)さんが「何か感じてくれれば」と貼ったものもあれば、奥原自身が書いたものもある。かつては圭永さんが3人の子どもたちに目標を書かせていたが、次第に彼が何も言わなくても、目標を設定することは奥原自身の習慣になっていた。

バドミントン経験のない父との猛練習。

 この“思考の習慣”には副次効果もあった。奥原が意志を明確にするたび、体育会気質の圭永さんの心にも火が点いた。最初の着火点は、小3の全国大会で全敗を喫したあと。悔しがりの奥原が「もっと練習したい」と申し出ると、「よっしゃ」と、奮起したのだ。

 メインの練習は夜7時からの2時間。姉と兄の3人で、父のノックをひたすら受けるという地味な練習だった。これは圭永さんにバドミントン経験がなく、打ちながらの相手ができなかったためである。

 そんな方法でよくトップに、と驚かされるが、一瞬の気の緩みも見逃さない圭永さんの視線が、「ミスをしない」、「1球1球を大切にする」という、コート全体をカバーする粘りのスタイルを作った。

奥原「家にいると緊張感がありましたね」

 ノータッチで終わったり、ネットに羽根をひっかけようものなら、「本気でやってんのか!」、「死ぬ気でやれ!」という圭永さんの声が飛び、容赦なくシャトルを連打された。日常生活でも、靴を揃えず家に上がろうものなら、雷を落とされる。「家にいると緊張感がありましたね」(奥原)。

 礼儀正しい大人になってほしい、さらに強くなりたい奥原の願いを叶えてやりたいという思いで、圭永さんも必死だったのだ。

 こんな強い父に対して、奥原は「負けたくない。いつか見返してやる」と思っていた。

11歳の娘の負けん気に震え、2人は本気になった。

 小6のときには、こんなエピソードもある。ある夜奥原の練習態度に怒り狂った圭永さんは、「あんな態度だったらバドミントンなんてやめちまえ。やる気があるなら見せてみろ」と怒鳴りつけた。

 父がこう言い出したら、気持ちを証明しない限り、許されることはない。おめおめと部屋へ引っ込むのも悔しい奥原は考えた。

「きついことをやれば、やる気が証明できるって思ったんです。それで走るよりきつい二重跳びをしようって」

 そう決めた奥原は、吹き抜けのある玄関に行って縄跳びを始めた。その様子を横目で見ていた圭永さんだが、徐々に娘が本気であることを知る。

 娘は20分、30分経っても跳ぶことを止めようとしない。ハッハッハッと荒い息が響き、床は汗にまみれている。さすがに40分以上が経過して「やめろ」と言ったとき、奥原は一瞬で脱力して、その場から動けなかった。

 じつはこのとき、圭永さんは11歳の娘の負けん気の強さに心が震えていた。そして目標を世界の頂点に切り替えることを決意する。

「希望がオリンピックで金メダルを獲りたいなら、全面的に支援してやろうって思ったんですよ。それまでは好きなスキーを優先することもあったんですが、すっぱり辞めました」

奥原「家にいると緊張感がありましたね」

 ノータッチで終わったり、ネットに羽根をひっかけようものなら、「本気でやってんのか!」、「死ぬ気でやれ!」という圭永さんの声が飛び、容赦なくシャトルを連打された。日常生活でも、靴を揃えず家に上がろうものなら、雷を落とされる。「家にいると緊張感がありましたね」(奥原)。

 礼儀正しい大人になってほしい、さらに強くなりたい奥原の願いを叶えてやりたいという思いで、圭永さんも必死だったのだ。

 こんな強い父に対して、奥原は「負けたくない。いつか見返してやる」と思っていた。

11歳の娘の負けん気に震え、2人は本気になった。

 小6のときには、こんなエピソードもある。ある夜奥原の練習態度に怒り狂った圭永さんは、「あんな態度だったらバドミントンなんてやめちまえ。やる気があるなら見せてみろ」と怒鳴りつけた。

 父がこう言い出したら、気持ちを証明しない限り、許されることはない。おめおめと部屋へ引っ込むのも悔しい奥原は考えた。

「きついことをやれば、やる気が証明できるって思ったんです。それで走るよりきつい二重跳びをしようって」

 そう決めた奥原は、吹き抜けのある玄関に行って縄跳びを始めた。その様子を横目で見ていた圭永さんだが、徐々に娘が本気であることを知る。

 娘は20分、30分経っても跳ぶことを止めようとしない。ハッハッハッと荒い息が響き、床は汗にまみれている。さすがに40分以上が経過して「やめろ」と言ったとき、奥原は一瞬で脱力して、その場から動けなかった。

 じつはこのとき、圭永さんは11歳の娘の負けん気の強さに心が震えていた。そして目標を世界の頂点に切り替えることを決意する。

「希望がオリンピックで金メダルを獲りたいなら、全面的に支援してやろうって思ったんですよ。それまでは好きなスキーを優先することもあったんですが、すっぱり辞めました」

バドミントンが盛んでない長野から埼玉の強豪へ。


 まるでふたりは、心と心のぶつかり稽古をしているようだ。


 圭永さんは、中学生になった奥原が世界へ手が届くようにと、世界で活躍した選手の講習会に参加させたりと、環境作りに腐心する。




 一方、バドミントンが盛んでない長野県にあって、奥原はグリップをどう握ればよいか、体をどう使ったらいいかなど、自分で考えなければいけない場面が多かった。

 ここにも、奥原が“思考力”を鍛えた痕跡がある。

 その賜物だろうか。中学卒業後、埼玉の大宮東高に入学すると2年でインターハイ優勝、3年で日本一になるという大きすぎる目標も、予定より早く達成する。2011年、全日本総合を史上最年少の16歳8カ月で制覇したとき、こう言っていた。

「自分が強くなった理由があるとすれば、人より1本1本を大事に考えているところかもしれません。練習内容にしても、どうしてそうするのか、意味を考えてやっている」

 決して天真爛漫ではない。だからこの優勝直後にケガをしてからの3年間は、身悶えていたはずだ。

東京五輪に目標を切り替えようとしたことも。

 とくに'14年4月、ヒザを二度目にケガをしたときはオリンピックでメダルを獲るどころか、出場さえ危ぶまれ、絶望的な状況とさえ思われた。1年後に控える五輪出場権争いまでに、無事リハビリを終え、実戦感覚を取り戻すことが、果たしてできるのか――。

 先が見えず、「目指すのは東京かな」と不安に襲われる日もあった。

 そんな日々があったからこそ、奥原は今年5月、五輪代表発表記者会見で「ここに立っていることが奇跡」と泣いたのだ。そして手にした銅メダル――。難解すぎる方程式の答えに辿りついた瞬間だった。同時に次の課題も見えてきた。

「東京では、表彰台の一番上に立ちたい」

 難問を解き明かすための思考の旅は、また始まる。