ブラジル・サッカー復活の鍵は“過去”にあり――第2回「キング・ペレ」
サッカーダイジェストWeb編集部

サントスと正式契約を果たした翌年に初のワールドカップ出場。
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1950年、自国開催のワールドカップで絶対的な本命と言われながら準優勝に終わった日から、サッカー王国・ブラジル代表の苦悩の日々が続いていた――。

ペレの伝記映画の公開にちなみ、現代の迷えるブラジルが復活するためのヒントを探るために、ペレの時代のブラジルを振り返る連載の第2回。所属するサントスでメキメキと頭角を表わしたペレは、17歳にしてセレソンの一員としてワールドカップに挑むことになる。~第2回(全3回連載)


 ブラジルが悲しみに打ちひしがれ、サッカー界が自信を失った時、ひとりの少年が強い決意を固めた。
「いつか絶対、僕がブラジルをW杯で優勝させるから!」
 自国開催のワールドカップ、決勝リーグ最終戦でブラジルがウルグアイに逆転負けした時、1940年10月23日生まれのエドソン・アランテス・ド・ナシメントはまだ9歳だった。
 家族には「ジッコ」と呼ばれたエドソン少年は、教育を重視する厳格な母親の目を盗んでサッカーに没頭。元プロ選手の父ドンジーニョからサッカーの技術、そしてブラジル・サッカーの“真髄”を教え込まれ、草サッカーのなかで、子どもとは思えない技を披露するようになった。
 好きだったサッカー選手「ビレ」をうまく発音できず、「ペレ」と言ったことを皆にからかわれ、自身がそのニックネームで呼ばれるようになるが、エドソン少年はこれを嫌がり、それが原因で喧嘩に発展することもしばしばあった。
 しかし、本人の希望とは裏腹に、その類稀なサッカーの才能は、「ペレ」という名とともに世間に広く知られていくこととなる。
 人生の転機が訪れたのは15の時。父の友人でもあるヴァルデマール・デ・ブリトの仲介により、サンパウロ近郊の街のプロクラブ、サントスに入団することとなったのだ。
 長く過ごしたバウルの街をひとり後にし、サントスで寮生活に入ったペレは、ユースチームで、競技としてサッカーを学び、苦労しながらも組織プレーを学んでいく。すると、リザーブチームを経て、早くもトップチームでプレーする機会が巡ってきた。
 56年9月7日、コリンチャンスとの親善試合だ。ここで、15歳の少年は早くもゴールを決め、戦力として認知されるようになる。
 さらに57年、サンパウロ州選手権に出場していきなり得点王となる。キャリアのなかで11回も獲得することになるタイトルを、16歳で初めて手にしたペレは、同年4月にサントスと正式に契約を結んだ。
 ペレの才能は、多岐にわたっていた。まだ発育途中でありながら、その身体能力は非常に高く、また均整が取れていた。171センチと決して身長は高くないものの、その優れた跳躍力で空中戦にも強く、脚力、走力もあり、当たり負けしない強さも有していた。
 そして何より、幼い頃から空き地や道路で培った高度なテクニック、創造性、即興性はトップレベルでも相手選手を驚かせ、見る者を魅了した。
 58年に早くも2度目のサンパウロ選手権得点王となった彼は、サントスの先輩、ジト、ペペ、ジウマールらとともに、58年スウェーデン・ワールドカップの出場メンバーに選出された。
 ペレがいかに神童だったとはいえ、これはブラジル国民にとって、そして何よりペレ自身にとってビッグサプライズだった。

17歳で作った数々の記録。そして決勝で披露した伝説のゴール。
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 9歳で誓いを立ててから、わずか8年で世界最高の舞台に立つこととなったペレ。もっとも、大会前に膝を痛めたこともあり、17歳の背番号10はグループステージのオーストリア戦(3-0)、イングランド戦(0-0)をベンチで観戦することとなった。
 そして最終節のソ連戦。スタメンのなかにペレの名前があった。58年6月15日、サッカー界の輝かしい伝説が始まったのである。
 順応性の高い少年は、この試合でW杯の雰囲気や戦いを理解し、続く準々決勝のウェールズ戦では、最初のゴール、しかも値千金の決勝点を挙げる。17歳と239日のことだった。
 準決勝でブラジルは、ジュス・フォンテーヌ、レイモン・コパ擁するフランスと真っ向勝負を演じて5-2の大勝利を飾るが、ペレはここでも決勝点をマーク。それだけではない。彼は52分のゴールを皮切りに、64分、75分と得点を重ね、ハットトリックを達成してみせた。
 開催国スウェーデンとの決勝戦を迎える頃、ペレは期待のホープではなく、初の世界制覇を狙うブラジルのキーマンとなっていた。それゆえ、これまで以上に徹底したマークを、この試合では受けることとなった。
 過去のW杯で、南米のチームが欧州で勝ったことはない。それは、欧州の組織サッカーが南米の個人技を封じたからといわれているが、南米のチームが感じる圧倒的なアウェー感も無関係ではなかったはずだ。
 ましてや今回は、開催国スウェーデンとの決勝。スタジアムは自国の優勝を願うファンで埋め尽くされていた。その雰囲気のなかで、ブラジルはニルス・リードホルムの技巧的なシュートでスウェーデンの先制を許してしまう。
 50年の忌まわしき記憶、54年スイスW杯でハンガリーに完膚なきまでに叩きのめされた悪夢が、ブラジル人の脳裏をよぎる。しかし、過去のブラジル代表と、今回の「セレソン」は全く違うチームだった。

 ジジ、ババ、ガリンシャ、マリオ・ザガロ、ジト、そしてペレらが軽やかなリズムを奏でながら、鮮やかなパスワークと曲芸的な個々のテクニックを織り交ぜて攻撃を展開するセレソンは、1点のビハインドなど全くものともしなかった。
 9分、32分とババがゴールを挙げてブラジルがリードを奪い返した後の55分、歴史的な一瞬が訪れる。
 左からのクロスをペレが胸でトラップ。寄せてきたベングト・グスタフソンに対し、ボールを浮かせて頭上を抜くと、そのままボレーでゴールネットを揺らしたのだ。
 17歳の少年による、高いテクニックと判断能力、そして創造性が生み出したスーパーゴールに、スウェーデン国民は度肝を抜かれた。試合はその後さらにブラジルが支配し、ザガロによる4点目の後、90分にはペレが頭でボールをコントロールし、GKの頭上を抜いた。
 開催国を圧倒し、見る者を魅了したブラジルが初戴冠! 歓喜の輪の中心には、ペレの姿があった。エドソン少年は、8年前の約束を、これ以上ないかたちで守ったのである。

前人未到の1000ゴール、唯一無二の3度の世界制覇 etc.…。
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 17歳でブラジルに世界一のタイトルをもたらしたペレは、母国の英雄となっただけでなく、サッカー界の顔となり、さらにはスポーツ界の顔、そして世界に多大な影響力を有する歴史的な人物となっていく。
 ピッチ上では、サントス一筋のキャリアを貫き、ここでサンパウロ州選手権11回、タッサ・ブラジル(全国選手権)5回を制した他、リベルタドーレス・カップでは61、62年に連覇を達成。インターコンチネンタル・カップでもベンフィカ、ミランを下して2度の世界一に輝いた。
 個人では、前述の通り、サンパウロ州得点王11回の他、タッサ・ブラジル、リベルタドーレスなど、あらゆるコンペティションでトップスコアラーとなった。
 こうしてハイペースで得点を積み重ねた結果、69年11月19日、ヴァスコ・ダ・ガマ戦で自らが倒されて得たPKを決め、前人未到の1000ゴールを達成。この瞬間、試合は中断され、祝福する者やメディアに囲まれながら、ペレは喜びのコメントを発した。
 74年10月2日、ポンチプレッタ戦で、いったんペレの伝説は幕を閉じる。ユニホームを脱いだ彼は、世界中を回ってサッカーを普及させる活動を開始するが、翌年に再びピッチに戻って来る。所属したのはアメリカの新興リーグ、NASL(北米リーグ)のニューヨーク・コスモスだった。
 これも、サッカー不毛の地だったアメリカにこの競技を根付かせるという普及活動の一環であり、彼はブランクを感じさせないハイレベルなプレーで“後進国”のファンを魅了。77年まで在籍し、伝道師の役割を完遂して今度こそ本当に引退した。
 代表レベルでは、前述の58年スウェーデン大会の後、62年、66年、70年と3度のW杯に出場し、62年チリ大会では2戦目のチェコスロバキア戦で負傷して以降の試合を欠場するも、2度目の世界制覇。そしてキャリアのピークを迎えて臨んだ70年メキシコ大会では、またもや伝説を作った。
 ペレの他、トスタン、リベリーノといった各クラブの背番号10が集い、攻守に実力者が揃ったセレソンは抜群の強さを披露。決勝戦ですらイタリアを4-1で一蹴するなど、力の差を見せ付けた。
 ペレはチャンスメーカーとして周囲のタレントを活かし、自身は4得点。とりわけ、決勝戦で先制点となったヘディングは美しさと強さに溢れていた。また、チェコスロバキア戦でのハーフウェーラインからのシュート(わずかに枠外)など、印象的なプレーを量産した。
 3度目の優勝でジュール・リメ・カップの永久保持という権利を母国にもたらしたペレは、現在に至るまで唯一となるW杯優勝を3度も経験した選手として、真夏のメキシコシティで、サッカー界の「王様」の座に君臨したのだった。
 ペレのトレードマークである背番号10は、ただの便宜上の数字から、世界中のサッカー選手や少年少女が憧れるエースナンバーへと変貌を遂げた。
 ペレの偉大さを物語るエピソードは数知れないが、最もその影響力を示すものとして挙げられるのは、69年1月にサントスの一員として訪れたアフリカで、紛争状態のコンゴ、内戦中のナイジェリアがそれぞれ、ペレのプレーを見るために一時休戦に至ったという話だ。
 人類の永遠のテーマである紛争の中止を、一時的とはいえ個人の力で果たした人物は、ペレ以外にどれほど存在するだろうか。

ブラジルが栄光を掴む時、高度な組織と突出したスターがいた。
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 ペレはサッカーのルールにも大きな影響を与えた。
 66年イングランドW杯、ブラジルはグループステージ敗退で世界を驚かせることとなったが、これは相手の徹底したマークにより、その良さを消されたことが敗因だった。
 そのマークは、とりわけキーマンであるペレに対しては悪質なファウルとなり、彼は初戦のブルガリア戦で負傷。続くハンガリー戦では欠場を余儀なくされ、最終節のポルトガル戦では怪我を押して強行出場するも、結局試合途中でピッチを退いた。
 当時は、ファウルに対する明確な判定基準が設けられておらず、また選手交代というルールもなかったため、ブラジルが数的不利を強いられる一方で、相手には何もお咎めしという、まさに「やり得」の状況となっていた。
 これに対してペレは「W杯には二度と出場しない」と宣言。もちろん、これだけが原因ではないだろうが、続く70年大会でイエローカード&レッドカード、そして選手交代の導入が成されるきっかけとなったことは間違いない。
 サッカーとビジネスが結び付くようになる上でも、ペレの存在が大きな役割を果たしたといわれるが、そもそもサントスの世界ツアーは、ペレ人気にあやかり、入場料収入の少なさ(ホームスタジアムのキャパシティが小さかったため)をカバーするのが目的で始まったものだ。
 また、ペレ自身も己の価値を知り、商標権を得てビジネスを活発に行なったことで、多くの収入を手にすることとなった。今では当たり前のことだが、当時は革新的なことだった。
 ニューヨーク・コスモスでの引退の際には世界ツアーを敢行し、多くの観客をスタジアムに集めたペレ。日本でも77年9月に国立競技場で2試合を行なった。ちなみにサントスの一員としても、ペレは72年に来日を果たし、世界一のテクニックを披露している。
 これほどの選手であれば、欧州のビッグクラブが獲得を狙ったのは言うまでもない。レアル・マドリー、インテルは熱心に入団を働きかけ、ユベントスにいたっては白紙の小切手を渡し、好きな金額を書くよう促したというエピソードも残っている。
 それでも、ペレは「サントスを離れ難い」という理由で残留を決意。サントスもこれに応えて放出を拒否、さらにはブラジル政府が「ペレは“国宝”であり、輸出することは許されない」との声明を出したのである。
 引退後は、サッカー界のご意見番として今なお活躍する他、ユニセフの親善大使、実業家、俳優と、活動の範囲は多岐にわたっている。95年にはブラジルのスポーツ大臣に就任し、国務にも携わった。
 サッカーの歴史を変え、サッカー選手のステイタスを大きく向上させた歴史上の人物。このような二度とは出現しない偉人が存在したからこそ、ブラジル・サッカーはどん底から這い上がり、サッカー王国としての地位を確立できたのだろう。
 サッカーというスポーツにおいて、今や高度な戦術と11人のハードワークがなければ、勝者となることはできない。2年前の「ミネイロッソ(ミネイロンの悲劇)」は、大会一の組織力を誇るドイツに対し、個人の力に頼ったブラジルが、その“個”の核となる選手を欠いたことで起こった。
 ブラジルといえども、欧州で生まれた潮流に逆らうことは許されない。組織プレー、戦術は勝利の重要な要素である。しかし、全てのチームが高度な組織を備えた時、違いを出せるのは個の力である。
 ブラジルが栄光を掴み取った時にはいつも、戦術が浸透したまとまりの良いチームのなかに、突出したスターがいた。ペレ、ガリンシャ、ロマーリオ、ロナウド……。逆にこの存在がない時、ブラジルは地味に大会を後にすることが多い。
 2年前の夏以来、暗黒のトンネルを彷徨い続けているブラジル。これを抜け出すのは容易なことではないが、這い上がるためのヒントは、過去の偉人がすでに示しているのである。