今生かす時です。
友人Kさんのノートよりお借りしました。
∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵
「田中角栄がもらった2つのプレゼント」
K · 2015年12月31日
.
1972年、田中角栄(首相)が中共と国交樹立のために北京に行った時、2つのプレゼントがありました。
(「櫻井よしこ」(元テレビ・キャスター/現ジャーナリスト/現シンクタンク国家基本問題研究所・理事長)さんの著書で知りました。知る人ぞ知る有名な話です)
(1)毛沢東からのプレゼントは、『楚辞集注(そじ・しっちゅう)』(『楚辞』の朱熹の注釈書)です:
楚辞の作者は「屈原」(チュー・ユエン/くつげん)で、戦国時代の「楚(チュ/そ)」の政治家・(愛国の)詩人です。
戦国時代は「戦国の七雄」が有名で、それぞれの国がどのように他国と付き合うかという外交問題があり、教科書では「合従連衡」(フゥツォン・リァンチョーング/がっしょうれんこう)として学習した記憶があります。
楚の国内では、西の「泰(チン/しん)」と仲良くしようとする「親秦派」(連衡)があり、また反対に、東の「斉(チー/せい)」と仲良くしようとする「親斉派」(合従)もあり、屈原はこの親斉派の先頭に立ち、秦は信用できないと、時の「懐王」に進言しましたが受け入れられず、秦の「張儀」の謀略にかかり、斉との同盟を破棄したとされています。
その後、楚が秦と戦争することになっても、当然、斉の協力は得られず、また、懐王はだまされ秦に監禁幽閉され、首都も攻められ陥落してしまいます。
屈原の意見は受け入れられず、陰謀で失脚し国を追われ、楚の将来に絶望して入水自殺します。屈原の詩は「愛国」の歌とされています。
その後、紀元前221年、秦は統一を果たします。
毛沢東のメッセージは、「日本が北京に逆らうと、屈原と同じ運命をたどりますよ」ということのようですが、反対側から見れば、「日本は北京の言うことを聞いていると、屈原と同じ運命をたどりますよ」とも受け取れます。
(2)周恩来からのプレゼントは『言必信、行必果』と書いた色紙です:
これは、論語の子路篇の言葉で、「言必信、行必果」(言った事は必ず守り、行った事は必ず結果を出す)、に続くのは「脛脛然小人也」です。「脛」(ジン)は「すね」の意味ですが、昔の言葉なので「コチコチの」と訳す人もいます。(あえて)同じ発音の別の字で意味を取ると「意外にも/あろうことか」になります。
前と後の句からなる「しゃれことば」を「歇後語」(シエ・ホウ・ユ/けつごご)と言います、前の句を言い、後の句で謎解きをするものです、当然、真の意味は後の句に込められます。
ですから、「言必信、行必果、脛脛然小人也」は「言う事は必ず守り、行う事は必ず結果を出す、(そんなのは)コテコテの/意外にも 小者だ」。もっと砕けた言い方では「言った事を守って行動して結果を出す、そんなのは小者だよ」ということでしょうか。
専門家によれば、「言った事を守り、行った事の結果をきちんと求めようとする人間は、時世の変化についていけないコチコチの小人」という意味です。
孟子は、「大人者言不必信、行不必果」(大物は、言う事を必ずしも守るものでなく、行う事は必ずしも成果を出すものでない)、と言っています。
(3)中国の「徳」は、政治的なもので、その「結果」から、リーダー(皇帝・人)を、正当化(評価)をするものです。「徳」さらに「天」と言う、見えないもの、外の世界にないもの(現実にないもの)をイメージさせ、介在させることで、納得させようとするやり方、考え方です。「徳」と「天」という2つのキー・ワードを作り、(キー・ワード使った)ストーリーを作り、納得(権威付け)させようとするものです。そのストーリーを聞いて、単に頭で理解してる段階あればで、それは理解、「認識」ですが、そのストーリーを信じ、「決断」して行動する人が出始める段階になれば、それは一種の「宗教」(イデオロギー)になり、結果オーライのゲームが始まり、(良い意味でも悪い意味でも)社会に影響を及ぼし始めます。 これは一言で言えば「視点を変える」やり方です、視点を変えれば、「見える世界が変わってくる」ことになります。それは「一つの世界(世界観)」で、そこには必ず「見える部分」と「見えない部分」ができます。見える部分は「価値(観)」になり、「(自分で)見たくない、意識したくない、隠しておきたいもの」は「見えない(負の)部分」となります。やがて(必ず)見える部分が問題を起こして、見たくない無視していた負の部分が、その解決を迫ってきます。この永遠の繰り返しは、(いい言葉を使えば)「進歩」とも言えるかもしれませんが、これは人の持つ「ことばの性(さが)」なのでしょうか。
ですから、(それらの人たちは)「結果」オーライであれば、その「プロセス」の中身(方法)は問いません(見ません/軽視します/無視します)。人に嘘をつこうが、騙そうが、そんなことは「没問題」「没関係」で、自己中心的でも、何ら問題はありません。日本人にとっては違和感を覚える、異質なものです。
(日本人は、すべてのものに、人間や人間のようなものをイメージしているのでしょうか。一神教の神のような畏れる神、見えないもの、外の世界にないものを、(極度に)必要としなかったのは、民族として、他民族に比べて、いじめ、苦難、苦しみを受けることの少なかった、現状に満足している平和な人たちだったのでしょうか。世界の中で希な、幸せで平和なこの小さな社会は(それでも)先人が汗と涙と血で築いてきたものです。これからは、(もう少し)目を覚まさないといけないのでしょう、この社会を維持していくために、日本語を話す人たちの伝統や歴史をもっと大切にして、人の「素晴らしさ」「愚かしさ」「不思議さ」を見て、外の世界(出来事)を理解していきたいものです。 というのは、「日本の常識は、世界の非常識」と言われたり、最近は、溢れる情報の中で、「メディア・リテラシー」(情報を評価し、識別する能力)が求められるようになっています。日本国内では「感情論ばかりで、事実の裏付けがない」と指摘する人もいます。そこには、「事実(ファクト)は何なのか」という事(視点)が軽視されるので、メディアに「嘘」「偏向(偏り)」「タブー」が、まかり通るのだ、とも言われます。 また、人の意見や多くの情報、特にメディアの情報には、必ず価値観が反映されて(含まれて)いるので、「重要視したい事」を強調して、「重要視したくない(軽視する/無視する)事」は表に出ることはありません。よく理想として「中立的なもの」と言われますが、現実に(マス・メディアに)そのようなものはありません。なぜかと言うと、現実はパラドクスですが、言葉でロジカルに筋を通そうとすると、どちらでもあるとか、どちらでも無いということはできないからです。「ありのまま」が現実で、それを言葉で表現しようとすると、表現から漏れる(できない)部分があり、表現しようとすると、パラドクス(逆説)や矛盾と言われることもあります。 「事実の追求」は、ジャーナリスト・その分野の専門家・ノンフィクション作家などに任せるにしても、「事実を見る目」を養うために、あるいは、ある出来事が「なぜ起きるのか」など、一歩踏み込んで考えてみたいと思うときには、「好き嫌い」「良い悪い」という見方(判断)を、一時(とき)脇に置いて、全体をイメージさせて眺めて(全体像を俯瞰して)見る。歴史的な出来事であれば、事柄の関係づけだけでなく、その人たちの心情をも考慮してみる。更に、意見を主張する人が、主張する価値(意味)は何で、(言っていることを通して)結局「何がしたいのか」、その(心情に踏み込んで)「覚悟」あるいは「我欲」を見て(感じて)、(その様に)一度自分を通してから、判断したり、「どうすれば良いのか」を、考えても遅くはないでしょう)
そういう(結果オーライの)人たちは、自己のアイデンティティをどう確認するのか考えてみると、如何なる手段をも駆使して「結果」を見える形で出し、(この世界で)「実感」しなければならないので、例えば、「金持ちになる」「人の欲しがるものをたくさん(より多く)所有する」「政治的社会的に高い地位に就く」、そして「得た地位の力を行使して、その高さ(大きさ)を実感する(したい)」、国家であれば「得た力(経済力や軍事力)を行使して、その大きさを実感する(せずにはいられない人の性)」などでしょうか。

(4)「櫻井よしこ」さんの言葉です:
『日本人はますます穏やかに大人しく文化的になってきた。そしていつしか、摩擦を恐れ、責められることを恐れ、問題を恐れるようになってしまった。人間関係も社会の運営も、筋を通すとか、社会正義に近づく努力よりも、軋轢を起こさないことを第一義とする本末転倒が基調になったのではないか。 あらゆる意味の「力」の行使を忌み嫌い、「力」から離れることによって却って「力」に支配される国になったのではないか。それがどんな深刻な被害をもたらしているか、・・・』
『力を疎(ウト)むことが正義を愛し守ることだと錯覚した日本社会は、結局、日本人自らをも守ることが出来なくなってしまった。典型的な事例が、北朝鮮に拉致された日本人の存在を、20年間も、政府が無視してきたことだ。・・・』
『平和の象徴の鳩は、実は戰い始めると、相手が死ぬまで攻撃を続けるという。獰猛と思われている狼は、相手が降参し、急所である首筋を自分の前に差し出すときは、攻撃を止めるという。攻撃しようとする本能を、剥き出しの牙と今にも飛びかかろうとして震える筋肉に表しながら、狼は、紙一重のところで踏みとどまるのだ。「力」を有するものが限りなく殺し合いをすれば、種は滅びるとの分別が遺伝子の中に刻み込まれており、それが相手を倒したいという本能に勝ってしまうのだ。片や鳩には「力」がないため、そのような抑制装置は備わっていない。だからこそ、攻撃が始まると、最後まで突き進んでしまうのだ。「力」を追放してきた日本は、自らが力なき存在になりつつある。物理的な力だけでなく、困難や問題に直面した時に戰うだけの心の強さ、意思の堅固さもなくしつつある。立ち上がらなければならない時に、勇気をふるって立ち上がることもなくなりつつある。 まるで大人しい羊のように、ほんのちょっとの力を持つ存在によって、如何様にもコントロールされる国民になりつつあるのだ。一体私たちはそんな人間集団であり続けてよいのか。それはとどのつまり、平和を愛する形をとりながら、実は残酷な鳩の国になるということではないのか。自らに厳しく問いたいものだ』
(以上)