みなさま連休中は如何お過ごしをなされていましたでしょうか?


 こちらは叔母の葬儀があり土曜日に枕経、翌日に告別式とハードな連休となりました。

 ただ叔母は享年九十七歳で入院歴も少なく、当日も自宅で新聞に目を通したりもしていたそうで死因は心筋梗塞だったとか・・・

 天寿を全うされたお一人でした。


 僕が戦後、満州から母に連れられ母の実家に辿り着いた時にはまだ叔母は嫁入り前で

 婚礼の時に初めてお会いし以後、大変お世話になったお一人でした。

 

 その後、僕の父親もシベリア抑留から戻り、一家でしばらく居候生活をしその後、群馬県の草津町近くのNKKの子会社である群馬鉄山に就職をし、その会社が社宅として借り上げた草津温泉の 望雲 という旅館を寮にし中学卒業まで僕は住んで居ました。


 そんな訳で夏休みには必ず母の実家のある長野県に里帰りをしていました。


   当時、米は米穀店で 現金で買うのではなく配給制した。

 夏休みの帰りには伯母がリュックサック、ボストンバッグや風呂敷に沢山の農作物を詰め持たせてくれたのを覚えています。

 信越線の蒸気機関車に引っ張られていた列車の中では、盛んに闇米の行商人の取締りが当時おこなわれてもいましたょ。

 そんなある夏休みに・・・

バス路線のなかった伯母が暮らす村にバス運行開始が始まり、諏訪市から有賀峠経由の辰野町への往復便が開通したんですね。

 その初めてのバスに伯母の長男を始め三~四を引き連れ乗車をしました。

 当時は諏訪バスで通称、丸エスバスだったかと・・・

 それがですょ、縁は異なもの味な物語なんですが

 それから凡そ五十年・・・

伯母の長男はそのバス会社も傘下に置いた、アルピコ交通の第九代目社長に登用され、七年勤めあげました。

 勿論今回の喪主さまです。

しかしこのご時世、告別式は近親者のみで精進料理は各自持ち帰りで

チョッピリ寂しい葬儀になりました。

 でもまぁしかし、年内にはうちでも葬儀が・・・ 悩ましい。



 



 秋は 夕暮れ
夕日が赤々と射して
 今にも山の稜線に
沈もうというころ
 カラスがねぐらへ帰ろうと
三つ四つ 二つ三つなど

 思い思いに急ぐのさえ

しみじみと心にしみる

 

 ましてカリなどで列を

連ねて渡っていくのが

 遥か 遠くに小さく見えるのは

なかなかにおもしろい


 すっかり日が落ちてしまって

風の音 虫の音 などが

 さまざまに奏でるのは

もう言葉に尽くせない


 上記は 清 少納言さまの

枕草子フォーシーズンの秋のパートの現代訳ですが、これを更に現代的JK風に意訳すると


 秋は夕方がいいかな

夕陽で山の端が

 チョー近くなってる時に

カラスが巣に帰ろうとして

 飛んでいるのとか

まじ感動するわ

 日が暮れてから

風とか虫の音が

 聞こえんのも

めちゃいいと思う


 の様だそうです(笑)


 まぁ、なんと申しましょうか

清 少納言さまもかなりお転婆さまでおられたご様子ですので、上記のようなタッチで当時は執筆活動を?

 (笑)

 はたして千年の後の世に披露されると、想って居られたか・・・

 と、同時に若し今後の世の中が千年続いたとしたら、アメブロをどう読まれるのか後の世の人々は・・・

歴史は繰り返されるのかな?

 (笑)


それもプーチン次第かもね? 

 英雄気取りは所詮儚き戦場へ !