
ミシェル・ウエルベック氏の「地図と領土」を読んだ。
氏はこの作品で二〇一〇年のゴンクール賞を受賞している。
「素粒子」を読んだのは、何年前だろう。次々とセンセーショナルで、インパクトのある作品を生み出しいるフランスの作家であります。
主人公のジェド・マルタンは、父が建築会社を営む裕福な家庭で育ったアーティスト。職業シリーズの絵画作品「ダミアン・ハーストとジェフ・クイーンズ、アート市場を分けあう」の創作に行き詰まっていた。
ジェドがアーティストとして成功をおさめた写真の制作、絵画の制作、ビデオ作品の制作過程を中心に、ジェドの人生にかかわってきた印象的な人物たちと大小の交錯を描いた群像劇となっています。
実在する有名人物たちを登場させリアルとフィクションが入り交じるオートフィクションという手法は、さらに重層的、広域的な世界を生み出すことに成功しています。なんせ、作者であるウエルベック自身が登場して、作品の重要な流れに関与しているのですから…。
ウエルベック作品を一貫して流れるモチーフは、いかに同時代の人間を描くか、現在性を過去と未来に向けてどう現出するのか、ということにあると思います。
だからこそ、描かれる人間の出身、生きてきた背景などの出自、形成している階層での位置づけが重要になります。ジェドは成功したアーティストとして生産システムの中に組み込まれてしまいますが、母親が自殺してしまったというトラウマを抱え、これも建築関係で社会的に成功した父親と一緒に人生の憂鬱な部分、影を払拭できないでいます。
ジェドはその晩年にアーティストとして表現する意味を問われて「世界を説明したい…」と言いますが、人生にかかわった人物たちと自分とのかかわりさえも説明できません。永遠に母と自分の関係を説明、解釈することの不可能性を背負わされてしまっているからです。
世界を説明する限界を意識するまでになって、舞台から俳優がはけるように世界という舞台から誰もが消えていきます。
どんな出自であってもその始まりと終わりを形成している人生の総体としての熱量は世界、自然に翻弄されながら同時代、同時性という時を刻んでいるに過ぎないのかもしれません。そして、それは奇跡でありながら、ただそこにあるものであります。
ジェドの表現する作品群は、そのような世界の有り様を彼の人生の分岐、高低に合わせて切り取っているものかもしれません。写真、絵画、ビデオ作品という表現形式の変化はそのまま世界の解釈の限界、写し取りをなしています。
作品において、とくに重要な視点は、人生にかかわる風景はさまざまな視点、眼差しの構造によっているという点です。ジェドは過去にかかわった女たちやウエルベック、同時代の芸術家たちと織り成した人生を想起しますが、ボイラーを直してくれる配管工や、サービスステーションで見かけた労働者など瞬間でかかわり合う、すれ違う人たちの声、姿が実人生を構成するさらに重要な要素となっています。
風景としての自然=植物の象徴と、市井の人たちとの瞬間的な交錯の有り様は、かかわり合いはまるで葉の葉脈のように重なりあい人の生きざまを構成しているかのようです。
人間にとっての生命、快楽の意味などを描いてきたウエルベックという作家にとって、「死」は重要なモチーフとしてきています。老いによる死の影、さまざまな死の有り様を描くことで、魂と肉体の関係消滅をセックスと快楽という謳歌へのアンチテーゼのように、親近憎悪のように描き出そうとしています。
なんなら、作品においてジェドが創作した写真、絵画、ビデオは市場における成功を約束する造形物ではなく、死そのものの象徴的造形物に過ぎません。
ジェドが出逢ってきた女性との交情や甘い関係の記憶も廃墟でしかありません。悲惨な死を描くことで、魂と肉体の行方を見極めようとする作者のストーリー展開には驚かされます。
同時代、現代において人間の生の価値がいかに世界とゆうシステムの中で翻弄されているものなのか? 肉体的な死を浮き彫りにするためフォン・ハーゲンスが援用されているので、ウエルベック今後の作品では「死」あるいは「死の姿」そのものという問題がもっと重要性を増してくるように感じます。
この今に存在しているという同時性の奇跡を感じる、考えさせる面白い作品です。