教会の母聖マリア・日毎の学び・今日一日の福音 | 私の居場所と今日一日。

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私の人生は死ぬまでのひまつぶし、とかってのブログに書きました。その後に私が見つけた日常の記録です。感情障害や無呼吸症候群、脳脊髄液減少症、アルコール依存症他の病を患っていますが、ブログで健康とヘルスケアを整えたいですね。




教会の母聖マリア


第一朗読

創世記3・9-15、20

命あるすべてのものの母

創世記

アダムが木の実を食べた後に、3・9主なる神は彼を呼ばれた。

「どこにいるのか。」

10彼は答えた。

「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

11神は言われた。

「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

12アダムは答えた。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

13主なる神は女に向かって言われた。

「何ということをしたのか。」

女は答えた。

「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

14主なる神は、蛇に向かって言われた。

「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
15お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」

20アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。



「教会の母聖マリア」の記念日に読まれるこの創世記の箇所は、人類の「最初のつまずき」を描いていますが、驚くほどAAの棚卸しや回復の原理に通じるものがあります。

各項目に沿って解説します。

1. ポイントと解説

- 「どこにいるのか」という問い: 

神はアダムがどこに隠れているかを知らないわけではありません。この問いは、アダム自身に「今の自分の(霊的な)状態」を自覚させるための、最初の「棚卸しの問いかけ」です。

- 責任転嫁の連鎖: 

アダムは「あなたが一緒にした女のせいだ」と言い(神と女を非難)、女は「蛇のせいだ」と言いました。

これは、私たちが飲酒時代に繰り返してきた「自分以外に原因を求める」典型的な姿です。

- 裸であるという羞恥心:

 罪(あるいは自分勝手な行動)を犯した結果、ありのままの自分(裸)をさらけ出すことが恐ろしくなり、神から隠れるようになります。

- エバ(命)という希望: 

罪と罰の物語の中で、最後は「命」という名前で締めくくられます。

これは、過ちがあってもなお、神の慈しみによって命が続いていく希望を示しています。

2. 考察と内省

- 考察: 

アダムと女の態度は、先ほどのテキストにあった「自己弁護は真実味のない理由づけ」そのものです。

「蛇がだました」「女が与えた」というのは事実かもしれませんが、「自分が食べた」という自分の選択から目をそらしています。

- 内省のための問い:

- 神(ハイヤーパワー)から「あなたは今、どこにいるのか?」と問われたら、私は正直に答えられるだろうか。

それとも何かの陰に隠れているだろうか。

- 今日、私は自分の失敗を「誰か(あるいは環境)」のせいにすることで、自己弁護の霧の中に逃げ込んでいないだろうか。

3. AAの原理とメッセージ

- 「正直」と「責任」の原理:

回復の第一歩は、アダムのように「あいつのせいで」と指をさすのをやめ、自分の責任(自分のパート)を認めることです。

AAの棚卸し(ステップ4、10)は、まさにこの創世記の「隠れている自分」を見つけ出し、神の前に裸で立つ(正直になる)作業です。

- 「恐れ」からの解放:

アダムは「恐ろしくなり、隠れました」と言いました。

飲酒の本質もまた「恐れ」です。

しかし、AAのプログラムは、正直に自分の非を認めることで、この根源的な恐れから解放される道を教えています。

- メッセージ:

新しい母(マリア)への移行:

「エバ」が罪を招いた母であるなら、この祝日に記念される「マリア」は、神の問いに「はい(お言葉通りになりますように)」と答えた、新しい従順と回復の母です。

私たちは、アダムのように言い訳をして逃げる生き方から、マリアのように「真実を受け入れ、神の意志に従う」生き方へと招かれています。

神の「どこにいるのか」という問いは、決して私たちを裁くためのものではなく、「もう隠れていなくていい、こちらにおいで」という招きの声です。

今日、あなたが「裸のままの自分」で、神様や仲間の前に差し出せる「正直な気持ち」は何かありますか?


または

使徒言行録1・12-14

彼らはイエスの母マリアと熱心に祈っていた。

使徒たちの宣教

イエスが天に昇られた後、1・12使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。13彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。14彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。


使徒言行録1章12-14節は、イエスの昇天直後、教会が誕生する直前の「待機と準備」の期間を描いています。この箇所に基づき、解説、考察、そして回復プログラム(AA)の視点から紐解きます。

1. ポイントと解説

- 従順な待機:

 使徒たちはイエスの「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい」という命に従い、山を下りて都に戻りました。

- 「上の部屋」のコミュニティ:

 かつて最後の晩餐が行われた場所とも言われるこの部屋に、使徒、婦人たち、イエスの親族が集まりました。社会的な地位や性別を超えた新しい家族の形が示されています。

- 心を合わせた祈り: 

「心を合わせて(ホモシュマドン)」という言葉は、オーケストラの調和のように、目的を一つにして熱心に祈り続けたことを意味します。

2. 考察と内省

- 空白期間の意味: 

イエスが去り、聖霊が降るまでの「中ぶらりん」の時間は、不安な時であったはずです。しかし、彼らは勝手な行動をせず、祈りの中で一致を保ちました。

- 内省の問い: 

私自身の人生において、「神の約束」を待つべき時に、焦って自力で解決しようとしていないでしょうか? 

また、孤立せず、誰かと心を合わせて祈る場(コミュニティ)を持てているでしょうか?

3. AA(アルコール・アノニマス)の原理とメッセージ

この箇所は、依存症からの回復における「ミーティング」と「フェローシップ(共同体)」の原点と重なります。

- 第2・3ステップ(信じることと委ねること): 

自分の無力を認め、偉大な力の介入を待つ姿勢は、まさに「上の部屋」で祈る使徒たちの姿です。彼らは自分の力ではなく、約束された助け手を待っていました。

- 第11ステップ(祈りと黙想):

 「心を合わせて熱心に祈る」ことは、個人の祈りを超えて、グループ全体で霊的な意識を高めるプロセスです。AAのミーティングで「共に祈り、分かち合う」ことが回復の生命線であることを象徴しています。

- 一致(Unity): 

「心を合わせて」という態度は、AAの三つの遺産の一つである「一致」そのものです。

個々の違い(使徒、婦人、親族)を認めつつ、共通の目的(回復/聖霊の待望)のために集まることが、奇跡(聖霊降臨/回復)の準備となります。

この「待機」の時間は、何もしていない時間ではなく、聖霊を受けるための「器」をみんなで整えている時間でした。

今のあなたにとって、誰かと「心を合わせて待つ」必要がある事柄はありますか?


答唱詩編

詩編87・1+2、3+5、6+7

神の町シオンよ、お前に示された神のことばはすばらしい。

詩編87

87・1神はシオンの町をとうとい山の上に建て、
2ヤコブのすべての住まいより愛される。

3神の町シオンよ、お前に示された神のことばはすばらしい。
5シオンはすべての者の母と言われ、すべてを越えるかたに支えられる。

6神は民を数えられる時、すべての人をシオンの民に加えられる。
7彼らは踊りながら歌う。「シオンはわたしたちの泉。」



詩編87編は、神の都シオン(エルサレム)が、単なる一民族の拠点ではなく、「全人類の母」としてあらゆる人々を包み込むという壮大なビジョンを歌っています。

1. ポイントと解説

- 選ばれた聖所(1-2節):

 神がシオンを選び、慈しまれたことを強調しています。「尊い山」とは、神の臨在がそこにあることを意味し、神の愛が注がれる場所です。

- 全ての民の母(3-5節): 

ここが最も驚くべき点です。

シオンはイスラエル人だけでなく、本来は敵対していた諸国民(ラハブ、バビロン、ペリシテなど※全文参照)でさえも、「ここで生まれた」として住民票に書き加えられる「母」となると預言されています。

- 命の源としてのシオン(6-7節):

 「シオンはわたしたちの泉」という言葉は、そこから神の恵み、喜び、命が湧き出ていることを示します。人々は国籍を超えて、踊りながらその喜びを祝います。

2. 考察と内省

- 普遍的な救い:

 この詩編は、神の愛が「内輪」だけのものではなく、外側にいる人々、あるいは疎外されている人々をも「わが子」として迎えることを教えています。

- 内省の問い: 

私の心の中に、「この人は仲間だが、あの人は違う」という排他的な壁を作っていないでしょうか? 

全ての人を包み込もうとされる神の広い愛に、自分自身の視点を合わせることができているでしょうか。

3. AA(アルコール・アノニマス)の原理とメッセージ

この詩編の「全人類を包み込むシオン」のイメージは、AAの「包容力」と「共通の根源」に深く通じます。

- 唯一の入会条件(伝統3): 

「飲酒をやめたいという願い」さえあれば、人種、職業、信条、過去の過ちに関係なく、誰もが「シオンの民(AAの仲間)」として数えられます。AAは、どんな背景を持つ人にとっても「霊的な故郷(母)」となります。

- 第12ステップ
(霊的目覚めと喜び): 

7節の「踊りながら歌う」姿は、絶望の淵から救い出され、回復という新しい命の「泉」を見つけた仲間たちの喜びのミーティングを彷彿とさせます。

- 共通の土壌: 

誰もが「シオン(回復の場)で生まれた」者として扱われることは、過去のレッテルを剥がし、新しいアイデンティティを得るプロセスです。

そこでは、かつての敵も味方もなく、同じ病に苦しみ、同じ恵みに預かる「きょうだい」となります。

神は、あなたがどこから来たかではなく、今「シオンという泉(神の恵みの場)」に共にいることを喜ばれています。

あなたが今日、自分を「受け入れられている」と感じる瞬間はありましたか?


歌う場合

詩編65・3+4、5、6

われらはシオンで神をたたえ、豊かな恵みを喜び歌う。

詩編65

65・3祈りを聞いてくださる神、罪に苦しむ人はみな、あなたのもとをたずねる。
4罪の重荷にうちひしがれても、あなたはすべてをゆるしてくださる。

5あなたの庭に住むように選ばれ、招かれた人はしあわせ。
わたしたちはあふれる恵みに潤される、あなたの家、神殿の中で。

6わたしたちの救い、わたしたちの神よ、あなたは地の果ての望み、遠い島々の希望。
わたしたちにこたえて救いを現し、驚くべきしるしを行われる。


詩編65編は、罪の赦しと神との交わり、そして全世界に及ぶ神の救いの力を喜び歌う「感謝の賛歌」です。特に「罪の重荷」からの解放と、神の近くに置かれる幸せが強調されています。

1. ポイントと解説

- 祈りを聞く神(3-4節): 

神は遠く離れた存在ではなく、罪に苦しみ、重荷を負った者の叫びに耳を傾ける方です。人間にはどうすることもできない「罪の重荷」を、神自らが取り除き、赦してくださいます。

- 神の庭の特権(5節): 

神に招かれ、その近く(庭、神殿)に住むことは、魂が最も満たされる「しあわせ」の状態です。

そこには欠乏がなく、あふれる恵みによって潤されます。

- 全地の希望(6節): 

神の救いは一部の人だけのものではなく、地の果てや遠い島々にまで及ぶ、全人類の「唯一の希望」です。

神は歴史の中に具体的に介入し、驚くべき力(しるし)を持って私たちに応えてくださいます。

2. 考察と内省

- 「自己処罰」からの解放: 

私たちは罪や過ちを犯したとき、自分を責め、神や他者から隠れようとします。しかし詩編は「人はみな、あなたのもとを訪ねる」と歌います。赦しは、神のもとへ行くことで初めて完成します。

- 内省の問い: 

今、私の心を「重荷」として圧迫しているものは何でしょうか? 

それを一人で抱え込まず、「祈りを聞いてくださる神」の前に差し出し、その潤いを受け取る準備ができているでしょうか。

3. AA(アルコール・アノニマス)の原理とメッセージ

この詩編は、依存症という「罪(自己中心性)の重荷」に打ちひしがれた者が、どのように回復の門を叩き、平安を得るかを鮮明に描いています。

- 第4・5ステップ(棚卸しと告白): 

「罪に苦しむ人はみな、あなたのもとをたずねる」という言葉は、自分の過ちの正体を認め、それを神と自分自身、そしてもう一人の人間に対してさらけ出すステップを象徴しています。

隠していた重荷を手放したとき、赦しと解放が始まります。

- 第6・7ステップ(欠点の除去): 

自分の力ではどうにもならない「罪の重荷」を、神に取り除いていただくプロセスです。

自力(Self-will)の限界を認め、神の力(God's power)に委ねることで、魂は潤いを取り戻します。

- 居場所(フェローシップ)への
招き: 

「あなたの庭に住むように…招かれた人はしあわせ」という節は、AAという安全な共同体の中に居場所を見つけたメンバーの喜びです。

そこは「あふれる恵み(仲間の経験・希望・力)」に満たされる場所です。

- 地の果ての望み: 

どんなにどん底(地の果て)にいるアルコホーリクであっても、このプログラムには希望があるというメッセージが、ここにも響いています。

「罪の重荷にうちひしがれても、あなたはすべてをゆるしてくださる」という言葉は、過去に縛られている人への最大の福音です。

あなたが今日、その重荷を少しでも「手放せた」と感じる瞬間はありましたか?


福音朗読

ヨハネ19・25-34

アレルヤ、アレルヤ。幸せなかた、主を産んだおとめ、教会の母よ。あなたはわたしたちのうちにイエス・キリストの霊をはぐくんでくださる。アレルヤ、アレルヤ。

ヨハネによる福音

そのとき、19・25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。


この福音箇所は、イエスの十字架上の最期と、そこから誕生する「新しい家族(教会)」、そして命の源としての「犠牲」を描いています。

カトリック教会ではこの箇所をもって、聖母マリアを「教会の母」として仰ぎます。

1. ポイントと解説

- 新しい家族の誕生(25-27節):

 十字架の苦しみの中で、イエスは母マリアと愛する弟子を互いに託されました。これは、血縁を超えた「信仰による新しい家族(教会)」の成立を意味します。マリアは信じる者すべての母となりました。

- 「成し遂げられた」(28-30節):

 イエスの「渇く」という言葉は、人類の救いを切望する神の愛の渇きです。彼は父から託された救いの業を完全に遂行し、自らの霊を神に手渡されました。

- 血と水(31-34節): 

兵士が突き刺したわき腹から流れた「血と水」は、教会のサクラメント(洗礼と聖体)の象徴とされます。

死をもってなお、イエスは私たちを潤す命を出し尽くされました。

2. 考察と内省

- 「そばに立つ」勇気: 

他の弟子たちが逃げ去る中、マリアと婦人たちは十字架の「そばに立って」いました。苦しんでいる人のそばに、ただ黙って寄り添い続けることの尊さを教えられます。

- 内省の問い:

 私は、自分の人生の十字架(困難)のそばに、誰が立ってくれているかに気づいているでしょうか?

 また、私は誰かの苦しみのそばに、逃げずに立ち続けることができているでしょうか。

3. AA(アルコール・アノニマス)の原理とメッセージ

この箇所は、AAの「スポンサーシップ(分かち合い)」と「無私による献身」の本質を突いています。

- 引き受けること(27節): 

「この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」という行動は、AAにおけるスポンサーシップに似ています。仲間を自分の人生の一部として迎え入れ、共に歩む。そこには単なる助言を超えた、家族のような深い結びつき(霊的家族)があります。

- どん底(十字架)からのスタート: 

AAの歴史も、一人のアルコホーリク(ビル・W)が絶望の淵(十字架のような状況)で、別の苦しむアルコホーリク(ドクター・ボブ)を求めたことから始まりました。

最も悲惨な死の場所が、新しい命の誕生の場となりました。

- 出し尽くす愛
(12ステップの精神): 

イエスの「血と水」のように、自分の経験、強み、希望を仲間のために最後の一滴まで出し切ること。

この「自分を使い果たす」無私の姿勢こそが、自分自身の飲酒欲求を抑え、他者を救う唯一の道となります。

- 「渇き」の正体: 

私たちがアルコールで癒やそうとしていた「渇き」は、実は霊的な渇きでした。

イエスが十字架で私たちの渇きを背負われたことで、私たちはもはや物質的なもので自分を満たす必要がなくなったのです。

イエスは死の直前、最も愛する人々を互いに結びつけました。回復もまた、孤独を脱し、誰かと「新しい家族」として結ばれることから始まります。

今日、あなたが「この人は自分の家族(仲間)だ」と感じられた出会いはありましたか?


信仰の糧、今日の福音