健康には人一倍気を付けていて、身体に良いと聞けば、どんなことでも取り入れていた母が

毎年受けていた市の健康診断で、肺に影があると指摘され、旭川にある大学病院において、

ペットによる検査を受けて、肺ガンであることが判明し、抗がん剤や放射線治療が施されたものの、脳にガン細胞が転移して、最終的には、地元の総合病院で、特に何も治療らしきこともなされないままに、亡くなったのは8月。それ以来私は夏が嫌いになった。


家庭の事情で、家を継いだ私は、親と暮らした家に住み、彼等が召されて、10年以上になるが、洋服は処分出来たものの、他の物は未だに捨てられないし、子供の頃からの思い出が尽きることはなく、親を思わない日はないから、

時に辛くなる。とにかくよく働く厳しい親で、

私は弱音すら吐けなかった。二人とも曲がっていたことや嘘が嫌いで、私が嘘をつけば、とても叱られた。時には体罰を受けたので、幼い頃から、特に父は怖かった。


戦争を経験し、貧しさを知ってる世代だったから、私には生活の苦労をさせたくなかったのか、安定した仕事に就くことを求めていたようだが、私は彼等と同様に、肉体労働が多く、低賃金の待遇が悪い職場で、働き続けた。


二十代の後半で、縁あって、私が住む町で一番古い教会で洗礼を受けて、クリスチャンになったものの、教会に行くことだけは許されたが、最後まで私が信じるキリスト教には、反対していたので、日頃は寺院には行かなかったにも関わらず、葬儀は仏式で行われた。まさか私が、

四十代で両親と死別するとは思ってもいなかったし、母の場合はおそらくガンのために、呼吸が出来なくなるのたろうが、とても息苦しい様子だったので、病院側からの提案もあり、薬で意識を失わせていたから、その身体に取り付けていた管を見つめる度に、日々体液が流れなくなる光景は、忍び難かった。


ガンが見つかり、治療が進んだ段階で、当人には余命宣告されていたが、結局母はそれを受け入れられすに、苦しむことなく、あの世に旅立

った。夏祭りが過ぎた頃、真っ白な壁のナース

ステーションの向かいの病室。そこに入った当初は他の患者もいたが、彼女の容態が悪化して、結局その患者は他の病室に移された。


まだ彼女に意識があり、容態も悪くなかった時には、自らでは何も出来ずにいたことに、恥ずかしさやコンプレックスを抱いていたが、寝た

きりで、食事すら与えられず、点滴だけで、過ごしていた。私たち家族も、病院側から、母の状態については、詳細に渡り説明を受けていたが、残念だったのは、その病院に呼吸器の専門医がいなかったことだ。内科において、多少呼吸器疾患に関する知識がある者が主治医だったが、その専門医ではなく、当然呼吸器疾患に対する臨床経験も乏しかったので、いくら母が圧迫骨折で、駅などの階段の上り詰め下りが出来なくても、タクシーを使ってでも、他の町にある呼吸器専門の病院に、転勤させなかったことを、後悔している。


ガンの発生当初は、私たちが住んでた所から、車で1時間ほどの町に、呼吸器と循環器がある道立病院があり、当時その病院は経営危機の状態で、何人ものスタッフが辞めていたが、その病院での治療により、一時的ではあったが、母のガン細胞は小さくなったし、同じ町にある他の総合病院では、最終的に脳に転移したガン細胞を放射線で取り除く手術をして、それが肉眼では見えないほどに回復したのである。だから昔から評判が良くない地元の病院ではなく、それらの病院に彼女を連れて行き、再度治療を受けさせたなら、状況は違っていたかも知れない


母が亡くなった日は快晴で、ちょうど真昼時だった。可能性がいつ息を引き取ったのか気付かず、母が収用された病室にいた。ベッドの周りにいた父を始めとした母の親戚らは、母の死を

悲しみ、泣き削れていたが、私はその実感も

なく、聖書にあるイエスが十字架につけられて、槍で脇腹などを刺され、息絶えた情景を想像していた。聖書には反れば真昼時で、天が真っ二つに裂け、空が暗くなったと記されている。イエス様がお亡くなりになった真昼時に、偶然にも母が息を引き取った。これも何か意味があるのだろうかと、漠然と考えていた。


今年も8月の母の命日がやって来る。彼女はどんな思いで、天国が召されたのだろうか?

まだ思い残していた事があったのではないか。

本当は死にたくなかったかも知れない等と想像を巡らし、元気だった時に母が管理していた小さな畑を、今は私が守っている。東北の農家の

出身だった母のようなわけにはいかないが、

私なりに、細々と畑を管理しているが、土作りから、野菜の種を撒き、お水を与えるなどの

作業をしていると、仕事の合間に、かいがいしくその畑で作業していた彼女の姿が、脳裏に浮かび、それと同じことを行ってる自らに驚くこともある。


彼女が亡くなるまで、それらに全く興味がなかったのに、今では朝起きる度に、畑に植えた

野菜の成長ぶりが気になり、時々それを妨げる原因にもなる畑の雑草を抜くなどして、良い収穫が得られるように努めるようになったのだから、、その死がもたらした影響が、どれほど大きかったことか。今は一人で暮らして、彼等が、

大事にしていた庭や畑の手入れを続けている。もし彼等が生きていたなら、どんな言葉をかけてくれただろうか?よく叱られていたので、

何かしらダメ出しをされていたかも知れない。


孝行したい時に、親はいない。毎朝仏壇にお線香を挙げることで、彼等の生前には出来なかったり、伝えられなかった思いを、祈りを通じて、語りかけている。