あるがままを許し、認め、受け入れよう
あるがままの自分を愛そう
このままの自分を愛そう
心理的ブロックを外そう
などとし、
抵抗奮闘して何かしらの心理的ブロックなるいっさいの実体のないものを
実践で自分の都合通りに、理想通りにと外そうとし、
どうにか改善しようとしている人達がたくさんいます。
ですが、
人はもう気がついたら身体持ってして人間としてあらわれていて、その時点ですでにあるがままの全てを受け入れっ放しなのです。
それなのに、
心理的ブロックを外し、ありのままの自分を愛そう、ありのままを受け入れようなどと考え方で実践して、外の言葉と考えで定義されている実体のない外の観念知識に固執し、滑稽な事を実践し続けてやっています。
その個人的世界観、思い込みを持ち、どうにか都合通り、思う通り、理想通りにとやろうとする
もともと実体のない考え上の観念そのものである自己こそが、
仏道で云われている苦悩と迷妄を作り出し増幅させる、消滅させるべき物理的に実在していない自己なのです。
世間では負の感情だと決めつけられている怒りや不安などを考えで改善すべき問題として扱い、
思考ではからいコントロールして、
浄化しようとしたり、
どうにか思う通りにしようとしている考え上の実体のない考えの中の考えそのものである自己こそが、
仏道で云われている滅ぼすべき、実体のない自己なのです。
人は自他の認識を持ち、考えて記憶する意の働きを有している機能の働きがあるがままですでに無我無心なのです。
思い、考えが勝手に働いていて、感情が動き、身体の感覚が無常に変化する様子があり、いっさいコントロールできず、その様子を無我無心というのです。
瞑想や世間一般の座禅、ヨガなどを実践しているほとんどの人は、思考を悪者にし、雑念、妄想などど呼び、感情などを都合の良いようにコントロールしようと創意工夫しようとしていますが、出来ているように思い込んでいるだけで、実際にはいっさいそんな事は出来ていません。
無我無心になろうとする奴が、実体なき滅ぼすべき自己です。
考えで扱い、実践してどうにかしようとしている奴を滅ぼすことが、仏道であり、仏陀の真の悟り、解脱の道です。
意志を持ってしてどうにかしようとしなくても目が勝手に物体を捉え、見ている働き、耳が勝手に様々な音を捉え、聞いている働きが自然と起きているように、意の考えるという働きも勝手に起きていて、それが無我無心の様子なのです。
よく、人は救われたいと願いますが、誰しもが同じように見えるように見え、聞こえるように聞こえているその様子が、すでに救われていると云うことなのです。
すでにみな無我無心なのですから、
自我というものをどうにかしようと奮闘している人がたくさんいますが、
そもそも自我なんてものは概念であり、思い込みであり、もともと実在していないのです。
鼻っから自我なんてものはないのですから、克服して消滅させる事は不可能なのです。
まだ悟っていないというのは思い込み、考え、観念、思想です。
先ほどから話しているように、すでに無我無心なのです。
人は生まれながらにして如来であり、
意の考える働きがある、
欲の思いが働く状態で、すでに成仏しています。
そうすると、
このままですでに無我無心なのだから、
仏陀の悟り、解脱、般若心経で云われている事を体現するために修行は必要ないのかと思われるでしょうが、
それは違います。
修行により、
様々に変化してあらわれる思い、考え、感情、感覚、これらを考えでコントロールしようとしている、
実体のない、考えそのものである観ているものを消滅させ、
自他の認識を一度完全に停止させない事には、
仏陀の悟り、解脱、般若心経で云われている事は体得出来ません。
仏陀の真の悟り、解脱、般若心経で云われている事は、頭による概念的理解を遥かに超越しているものです。
そのために、
真の正しい実践なき実践が必要になってくるのです。
瞑想、メディテーションなどの実体のない自己の都合の良い感覚を求めるものでは、仏陀の悟り、解脱の体現は不可能であると断言しておきます。
修行期間は人によりけりですが、
仏陀が2500年前に難行、苦行により様々な失敗や遠回りをした恩寵により、世間や有名な禅寺には出回っていない、正しい実践なき実践方法と、正しい概念的理解を残してくれているおかげで、約1年もあれば、誰しもが、仏陀の悟り、解脱の体現にあずかれるのではないかと思っております。
中村幸ム(nakamura yukimu)