俳句には格言があります

「俳句に生憎(あいにく)はない」

俳句を詠もうとして、不都合ということはないということです

夏井いつき先生は、転覆したタクシーの中で救助を待つ間に、これは特別な一句が詠めるかもしれないと喜んだそうです

例えば、吟行に行きます

予定では開いているはずの施設が事情で閉まっていて、思い通りの吟行ができない場合があります

通常のイベントでは、残念な思いで帰ります

でも、俳人は違うのです

俳句では類想・類句を嫌います

同じようなありきたりな体験では、同じような感想しか持てません

例えば、ディズニーリゾートで残念な体験をしたとします

普通なら面白くないと感じますが、俳人ならチャンスと捉えます

滅多にない体験なら、他人と違う句が詠めるからです

ですから、人生においても大変な思いをした時期にこそ、特別な句が詠め、喜ぶのです

私自身も、脳梗塞で入院した際の体験を何句か読みました

 

起床時刻遠し明易の病棟

 

破調が内容に合っていると評価下さる方もいました

夏井いつき先生自身、俳句に何度も助けられていると仰います

そこで、私は考えました

世界の紛争地や耐え忍んでいる方々へ俳句を弘めたいと

例えば、ウクライナ、例えば、ロシアの反体制の方々や一般庶民

イスラエルもそう、ガザもそう、東南アジアも中南米もアフリカ、中東、中央アジア、東欧などなど

日本語の俳句と違い、季語などなくても他人と全く異なる短詩の創作を喜ぶ文化を弘めたい

とんでもない体験を辛い思いにだけせず、俳句と言う短詩に吐き出す喜びを持って欲しいのです

例えば、沢田教一がピューリッツァー賞を受賞した写真「安全への逃避」の被写体の母親がもし、俳人であったらどうだろう
安全な場所にたどり着いたら、一句にしようと思えば、より頑張れるかもしれない
 

「一切れのパン」という小説をご存知だろうか
第二次大戦中、ルーマニア人の主人公は敵国ドイツ軍に捕縛され、拉致されました。
列車での移動途中、何人かが脱走を企てます。
主人公もその中の1人。
列車から離れようとするそのとき、「ラビ」という名のユダヤ人が主人公にハンカチに包まれたパンを手渡します。
「このパンは、すぐに食べずできるだけ長く持っているようにしなさい。苦しくてもパンを一切れ持っていると思うと、がまん強くなるものです。そして、そのパンはハンカチに包んだまま持っていること。そのほうが食べてしまおうという誘惑にかられなくてすむから。わたしも今まで、そうやってずっと持ってきたのです」と。
その後主人公は何百キロも離れた自分の家まで、地獄のような逃亡生活を続けます。
その何日間もの絶食状態の逃亡生活は飢えとの戦いでもあったのです。
ついに主人公は国境を越え、家族が待つ我が家までたどり着きました。

主人公は「ラビ」からもらったパンを思い出し、ハンカチの包みを引っ張り出し、包みを解きました。
その時、ハンカチから床に落ちたものは「一片の木切れ」だった。

 

俳句は食べられません。

でも、小説の「一切れのパン」も食べられません

その「一切れのパン」により、主人公は辛さに耐えきりました

俳句がこの「一切れのパン」になれはしないかというのが、私の思いです