さて、翌朝です。寝不足ではありますが、まずはバスで四条河原町から一条戻橋に向かいます。ちなみに朝食はどっちでも良いというので、とっておりません。
清明神社で時間調整して、路地を歩いて向かったのは「暮らしの美術館 冨田屋」。西陣の呉服商である冨田屋がその暮らしの様式を伝えるべく、屋敷の一部を公開している施設である。
今までとは違って、まず映像による京都の文化の説明で基礎知識を得てから実際の屋内の見学に移った。
この屋敷を作った10代目当主は茶人でもあった。茶人の庭にはキリシタン灯籠が多いという。キリシタン灯籠と言われているものは茶人であった古田織部が考案した織部灯籠であってキリシタン灯籠とは違うのだともいうが、千利休はキリシタンだったという説もある。
千利休の像が大徳寺の山門に置かれたことを問題として秀吉は千利休の首を刎ねたわけだが、大徳寺の僧の中にはキリシタンの洗礼を受けた物も少なからず居たようだ。またキリシタン大名として有名な大友宗麟の菩提寺は、大徳寺の塔頭である瑞峯院というのも興味深い話だよね。
9時から約1時間滞在して次へ。
崇徳天皇は3歳で即位したが、権力は白河法皇が持ち、更にはその白河法皇に無理矢理譲位させられたら鳥羽法皇がいた。鳥羽法皇からすると、祖父に天皇の地位を奪われて、自分の息子ではない息子(祖父の息子)に譲らされたというとんでもない話だったんですね。
となれば、白河法皇亡き後は復讐です。崇徳天皇から実の息子、表向きには次男の後白河天皇へと譲位させます。そして今度はそこに新たな遺恨が生まれてしまった訳です。
それが鳥羽法皇亡き後起きた保元の乱です。勝者は後白河天皇となりました。
敗れた崇徳天皇は流罪になり流された四国で亡くなりましたので、御陵は四国の白峰寺のそばにあります。唯一四国にある天皇陵です。
そこで話は一気に進み大政奉還となりました。王政復古を前に明治天皇の頭をよぎったのは、この800年も遡る御先祖様の怨念のことでした。そこで長年遠く離れた地に遠ざけていてごめんなさい。近くにお住まいを用意しましたから戻ってきてくださいと造営したのが、この白峯神社というわけです。
白峯神社からはまだバスで紫竹へ移動。
スターダスト
075-286-7296
京都府京都市北区紫竹下竹殿町41
https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260503/26025990/
ここを知ったのはグンマーな知り合いにフォローしている人が多かったから。たとえばモンスンとか。
かぼちゃのスープのランチを頂きました。濃厚なかぼちゃ😊。あとはオリーブオイルの玉葱。
ハーブティーはなんだったかな😅記憶は遠いところに沈んでしまったようです。わからないから男性に人気のものをご紹介いただいてその中から選んだので。
続きます。
ね。