とはいえ、自閉的精神病質の子どもに対するアスペルガーの総合的評価は、軽蔑的な言葉に満ちている。「大半の症例で、自閉的特徴のプラスの側面がマイナスの側面を上まわることはない」。そのため、自閉的な子どもは「知的に障害がない場合」に限り、優れた業績を上げられる可能性があると述べ、症例の記述の大半を「有能な自閉的個人」に割き、「幅」の中でも「好ましくない」側にいる子どもについては詳しく論じなかった。こうした特定の子どもを強調する態度は、自閉的精神病質を取り上げたアスペルガーの意図について間違った印象を与えることになった。優生学的観点から「好ましい症例」のみを重視したため、彼が優生学の支持者だった事実を覆い隠してしまったのだ。

実際にはアスペルガーは、プラスの価値を持つ子どもとマイナスの価値を持つ子どもの間にはっきりと線を引いていた。論文の大半を使って説明されたフリッツとハローは、自閉症スペクトラムの中でも「きわめて好ましい」側にいる子どもたちだった。エルンストについては「中間的な症例」であり、「非常に有能なのか知的発達が遅れているのか」はっきりしないと言いながらも、最終的には、このような「中間的」領域では「マイナスの側面がプラスの側面を上まわる」と結論している。

だが、障害がさらにひどく、ほとんど社会的価値がないと見なした子どもには、はっきりと軽蔑的態度を示した。「この中間グループからさらにマイナスの方向へ少しずつ移行していき、最終的には自動人形のような型どおりの行動しか示さない、知的発達の遅れた人間に至る」。こうした人間は、カレンダーの日付や路面電車のルートの「機械的暗記」など、「実用性のないことに狂気じみた関心を抱く」

アスペルガーは、こうした「好ましくない症例」に対して残酷な表現を使った。ナチス精神医学の「非社交的」「反社会的」人間のイメージをあてはめ、これらの子どもの将来をこう予言した。

「ぼろぼろの奇怪な姿をした“変人”として街頭を徘徊し、大声で独り言を言ったり、無神経に通行人を怒鳴りつけたりするようになる」

それどころか、障害がひどい自閉的な子どもたちの人間性さえ否定し、論文全体を通じて彼らを「知的な自動人形」呼ばわりした。「全人格が自動人形のような性質を帯びている」と述べ、ヘルムートに至っては「自閉的な自動人形」と呼んでいる。アスペルガーは自動人形を引き合いに出すことで、その子たちには社会に対する生産的価値がないだけでなく、社会的感情の能力もないことを示唆した。つまり、自閉的精神病質の幅の中でも「好ましくない」側にいる人間は、民族共同体に入れないということだ。

アスペルガーは、こうした「世界と一体化」できない子どもには「“学習能力がない”」とまで極言した。この言葉は、ナチス精神医学の「教育不可能」という概念と一致する。安楽死プログラムにおいて殺害の主たる基準となる概念である。このナチス精神医学のレッテルを貼られると、その子の個性は消え、個人どころか人間としても認識されなくなる。それは精神医学的な意味での死の宣告だったが、安楽死施設に連れていかれる子どもたちにしてみれば、本当の意味での死の宣告でもあった。

⇀「アスペルガー医師とナチス-発達障害の一つの起源-」 エディスシェファー 山田美明訳

 


※その他、参照 ↓

https://www.afpbb.com/articles/-/3171911?cx_amp=all&act=all


アリストテレスからナチス、戦後の日本に至るまで優生思想、優生的な思考傾向は顕著であった。これはナチスだけの問題ではなく、ナチスが極端にまた馬鹿正直に実行に移しただけの話で、共同体を持ち出す連中というのは結局、究極の所本質的にはこうなんだろうと私は思っている。

それはさて置き、画像の文章を見れば今の日本の発達障害への対応と非常に似通った文言がある事に気付くだろう。それほどに今の発達障害に関与する療育、行政、精神医学の世界は悪質であり、無意識的にまた連中に元々は悪気がなかったとしても、いわば、どこに隠れナチスがいてもおかしくないだろうなと私は考えている。