量子物理学にはコペンハーゲン解釈と多世界解釈という、2つの量子力学の解釈の仕方があります。
コペンハーゲン解釈は量子力学の波動関数が人間の観測により収束、崩壊する事で観測値が一通りに実現する仕組みになっていて、多世界解釈はそれではなく可能な状態の波動関数が収束することなく様々な可能性がそれぞれ並行宇宙に分岐していく方式を採ります。
近年コペンハーゲン解釈の人は、コペンハーゲン解釈こそが正当な標準解釈であり、多世界解釈は必要ないとかコペンハーゲン解釈の言い換えにしかなっていないという主張をしています。私の知る中では堀田昌寛がその路線で有名です。私もこの堀田という物理学者をTwitterでフォローしていて一時期、量子力学は結局どちらが正しいのかと悩んでいましたが、最近宇宙人と交流していると、なんかの拍子にたまたま出てきた宇宙人が地球を片手指で指しているのが見えました。しかし、どうもそれは違う地球であり、宇宙人はパラレルワールドの存在を示唆しているように思えてなりません。私は結局、多世界解釈(並行宇宙説)を見直すことにしました。
その他にも、堀田氏によると、量子力学のコペンハーゲン解釈の波動関数収束を論じるには観測者に(自己としての)一つの意識だけを持つ事が前提とされるのであり、それを自己同一性と捉える時、他方の多世界解釈は解離性障害的な世界観でもあり、だとするとコペンハーゲン解釈の宣言は単なるマチズモ(健常者優位主義)の言説に過ぎないように思えてならないという理由がありました。
一旦物理学を離れて解離性障害のパラレル認識について書きます。まず、パラレルは、例えばこんなの↓

 

この人が解離性障害的かはまだ分かりませんが、スピリチュアルとして本物ならば解離性障害親和的な所は必ずあると思います。※但し、解離性障害と決めつけていない事は重要です。
 次に実際の解離性障害のパラレル認識について引用します。
症例G❲女性四〇代前半·解離性離人症❳
幼稚園の頃、自分が見ているオシロイバナも見えていたし、オシロイバナとそれを見ている自分も、自分の姿と庭全体も見えていた。家など全体を俯瞰している視点もある。いろんな視点にスイッチできていた。昔は視点が変わっても、世界は同じものとわかっていた。最近は、この体のこの眼から視線が出ているのをとても不自然に感じる。この視点に違和感がある。外からカメラアイみたいに見えるほうが自然に感じる。どんなアングルでもかまわないけど、この器のなかに眼があるのは不自然なんです。空間の外、劇場の外、舞台の外に自分はいる。これが自分だという意識はあまりない。世界は映画のようなもの。複数のカメラで複数のアングルで撮っている。こういったカメラの視点から、かろうじて世界を多面体として捉えている。自分はどこにでもいるが、どこにもいない。視点が定まらない。電話をしていると、相手のほうに私の意識があるように感じることがある。そっちのほうに自分がいる感じがする。
昔から知覚と想像は同質で同等のものだった。1番カメラ、2番カメラ、3番カメラ。知覚と想像という非対称性ではなく、知覚と想像1、想像2、想像3はすべて同等であり、そのなかのひとつとして現実があるにすぎない。幼少時からずっとそうです。現実世界は複数のパラレルワールドのなかのひとつにすぎない。複数のカメラが作動していて、スイッチを変えるだけです。今でも、私は複数のパラレルワールドのなかにいます。時間軸が何本かあるんです。
 
この症例のこうした離隔体験についてさしあたって二点を指摘しておきたい。
第一に、現実の「器」(身体)から離れ、世界を眺める複数のパースペクティヴが見られる。こういったことを患者は「デジタルカメラで世界を見ているようだ」と表現する。画像が枠づけられて狭窄していること、平面のように感じられること、世界とのあいだに介在物があって世界が遠くに感じられる。こうしたカメラが複数あって、対象を見る視点、自己像を見る視点、世界を俯瞰する視点など、複数のパースペクティヴを通して世界を体験している。こうしたことは自己の同一性の希薄さや空間偏在性に通じている。こうした複数のパースペクティブの体験を「パースペクティヴの多重化」と呼んでおく。
第二に、現実世界に向けられたパースペクティヴと想像世界に向けられたパースペクティヴがパラレルとなる。そのため現実が想像であるかのように、また想像が現実であるかのように体験する。総じて解離において、同一性、身体、世界の断片は想像のなかで増殖し、その全体性つまりあらたな自己同一性、生々しい身体感覚、奥行きをもって広がる世界を獲得していく。「パースペクティヴの並列化」は、こうしたリアルな同一性、身体、世界を想像のなかで作り出す構造的基盤となっている。
ある患者は「挿し絵入りの物語を読んでいると、挿し絵の端っこに自分がいて、その世界を見ていることがある」と述べた。図を参照していただきたい。
世界Aを現実の世界、世界Bを物語の世界とし、(a)や(b)はそれぞれの世界のなかに存在する自己を示しているとしよう。患者の言葉からすると、現実の世界Aのなかの「私」(a)が物語の世界Bを見ているパースペクティヴと、挿し絵の端にいる「私」(b)が物語の世界Bを見ているパースペクティヴがあるように思える。しかし実際には、物語の世界を見ているのは現実の世界Aのなかの「私」(a)ではなく、現実の世界の外に位置する私(c)である。(c)を媒介することで、現実の世界の内にあってその世界を見ている現実の「私」(a)と、物語の世界の内にあってその世界を見ている想像の「私」(b)の並列化したパースペクティヴが成立する。ここには「私」(c)のパースペクティヴが潜在しており、実際には(a)(b)(c)の三つのパースペクティヴの並列化が見られる。次の症例を見てみよう。

症例P❲男性·三〇代半ば·解離性同一性障害❳

体外離脱すると、何も感じなくなって楽になる。空を飛んだり、まるでまったく現実とは違った場所に行ったりする。たとえば、夜、自分が駐車しようとしているときに、他人の車の陰にもう一人の自分がいて、その自分が、駐車しようとしている自分のほうを見ている。駐車しようとしているのが抜け殻の自分で、それを見ているのが抜け出たほうの自分です。その人の車に乗りたいと思った瞬間、すでにその他人の車を運転しているんです。感覚も乗り心地もそちらのほうがリアルです。自分が二人いるような感覚です。

 

ここには、駐車しようとしている現実世界の自分と、人の車を運転している想像上のもう一人の自分がいる。彼が言う「自分が二人いるような感覚」がパースペクティヴの並列化である。この症例では同一性の変化はほとんど見られないが、異なった身体をもったもう一人の自分が現れている。これは単にリアルな想像世界に没入しているということではない。

駐車しようとしている現実の自分は抜け殻(a)であり、他人の車の陰から自分自身を見ているもう一人の自分は「体外離脱」したほうの自分(c)の形象化である。(a)が(c)から見られているという被注察感は気配過敏症状の系列に含められる。

その車に乗りたいと思ったとき、すでにその車を運転しているのが(b)の自分である。いわば(c)が、想像の空間Bのなかに入り込み、他人の車を運転する(b)へと没入している。ここでも(a)(b)(c)の三つがパースペクティヴの並列化を形成しているのがわかる。(c)は世界Aにも世界Bにも没入しうるパースペクティヴをもち、それぞれの世界のなかの同一性、身体を獲得する以前の「潜在態」であるとも言えよう。

 
現実が複数のパラレルワールドと同等のリアリティしか持っていないのですね。これ自体は量子物理学的多世界解釈とは全然別物ですが正にパラレルワールドとはこういう代物なんですよね。
つまり解離性障害においてパラレル認識とは、現実にしがみついているにも関わらず現実を捏造しようとするかのようなパラレルシフトだとかそういうソフィスト的な見解とは異なるわけです。並行宇宙説の世界分岐にしても、単に物理学的な波動関数の問題であって人間の都合で人間中心主義による捻じ曲げで世界、宇宙が分岐しているのではありません。彼らに言える最も的確な指摘はアインシュタインが言った「月は君が見ていない時には存在していないというのかね」という言葉でしょう。アインシュタインは全然別の事への反論でこれを言いましたが。
一方、現実の世界の外に位置するcという“潜在態”、同一性、身体を獲得する以前のこれも興味深いです。堀田氏は、ホイーラーが多世界解釈では宇宙が宇宙を観測する矛盾に答えを出せなかったと言い、多世界解釈では意識が創発する事を説明できないといけないと問題視しましたが、私はこの潜在態のような宇宙の意識があるとしたらこれは問題なくなると考えました。少なくとも引用したような解離性障害の世界認識は多世界解釈の問題と関わっているように思います。

最後に、宇宙人が並行宇宙に住んでいる可能性を考えている物理学者もいるようです。↓

 以前、私が朝起きた時、宇宙人が2人ほどイオンの立体駐車場や空港のターミナルのような所を歩いていました。見るとどこも人間の街と同じで、人のところが宇宙人になっていましたからこの説には一理ありそうです。但し、並行宇宙利用は一部の宇宙人の生態に過ぎないかもしれないと私は考えています。