- チップス先生さようなら (新潮文庫)/ヒルトン
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ある満月の夜のことだった。チップスが四年下級にラテン語を教えていると、空襲警報が鳴り出した。(中略)
そこで、彼はかまわずにラテン語を続けていった。ドカンドカン響き渡る砲声と高射砲弾の耳を貫くような唸りに、ともすれば消されそうになる声を大きくして。生徒は苛々して、勉強に身を入れているものはほとんどなかった。彼は静かに言った。
「ロバートスン、世界歴史のこの特別な瞬間に、・・・・・・あーム、・・・・・・二千年前ガリアで、シーザーが何をしようと、そんなことは、・・・・・・あーム・・・・・・何となく二義的な重要性しかなく、また、・・・・・・あーム・・・・・・、『tollo(トルロ)』 という動詞が不規則変化をするなんてことは、・・・・・・あーム・・・・・・どうでもいいと、君は思うかも知れない。しかし、わしははっきり言っておくが、・・・・・・・あーム・・・・・・ロバートスン君や、真実(ほんとう)はそんなもんじゃないんだよ」
ちょうどその時、凄まじい爆発の音が、それもすぐ近くで、爆発した。
「・・・・・・いけないんだ、・・・・・・あーム・・・・・もの事の重大さを、・・・・・・あーム・・・・・・その物音で判断してはな。ああ、絶対にいけないんだ」
クスクス笑いが聞こえた。
「二千年も長い間、大事がられてきた、・・・・・・あーム・・・・・・このようなことは、化学屋(ばけがくや)が、実験室で、新種の害悪を発明したからといって、そんなもので、消し飛んでしまうもんではないんだよ」 (P84)
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古ぼけて、ボロボロになった教師服(ガウン)、危うく躓(つまず)きそうな歩きぶり、鉄縁(てつぶち)の眼鏡越しにこちらをのぞく優しい眼、それに妙におどけた話しかたなど、彼のブルックフィールドにおける在りかたは、それでなくては通用しなくなった。(P87)
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彼(チップス先生)は洒落の名人だということになってしまい、皆はいつもそれを聞きたがった。会に出席して挨拶に立つ時はもちろん、部屋でテーブルを挟んで話す時でも、彼と接するほどの人は、心ででも顔ででも彼の口から冗談が飛び出すのを待ち構えた。そして、笑おうという気持ちで聞き耳をたてたから、テもなく満足させられたし、肝心のポイントにまだ来ないのに笑い出すものさえあった。
「チップス大人(だいじん)、すこぶるご機嫌だったね」と、皆は後でいつも話し合った。
「が、それにしても、あの男のように物の可笑しな面をいつも見逃さないというのは、ちょっと類がないね・・・」(P92)
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☆ 霧深い夕暮れ、炉辺にすわって瞑想にふけるチップス先生の胸に、ブルックフィールド中学での六十余年の楽しい思い出が去来する。腕白だが礼儀正しい学生たちとの愉快な生活、美しく聡明だった亡き妻、大戦当時の緊張した日々・・・。愛情に満ち、しゃれの名人でもある英国人気質の老教師と厳格な反面ユーモアに満ちた英国の代表的なパブリックスクールの生活を描いて絶賛された名作。(裏表紙の紹介文より)
☆ 薄くて、すぐ読める短編。第一次大戦前後の古き良き時代の英国の雰囲気を楽しめます。砲撃のなかを、ラテン語の授業を続ける場面は、チップス先生の面目躍如。