- そういう事情であったから、シンクレアの存在は今なお、誰にも侵されない特別の世界だった。誰にも争えない魅力と、誰にも覗けない深淵のようなものがあった。そばにいるだけで、恍惚の身震いを覚えるような力に満ちていた。
シンクレアとともにいるときに感じる、この悦びを何と言えばいいか。シンクレアの弾き出す音が、この世界を突き抜けて広がっていくとき、自分の全身に満ちわたる衝撃を何と言えばいいか。一言では言い表せないさまざまの思いが、渾然として深い霧になり、夢想の沼に垂れてくる。この気分を何と言おう。
リーアンならおそらく分かるだろう。二人で見ていたあの湖の霧だ。
この夢想の霧こそは、自由の徴であり、力だった。夢想の中で自分が解き放たれ、新しく生まれ出ていくのは、シンクレアのピアノの中では幻ではなかった。思えばアイルランドでは、この千年、すべて消えていくものばかりだった。
- (中略)
シンクレアの居間には、驚いたことに人がいた。正装の紳士がソファに座っている、というより斜めに傾いて頭を垂れていた。美しく櫛目の入った明るいブルネットの髪と、純白のシャツとシルクのベストの金鎖が光っている。
(P64 高村薫 『リヴィエラを撃て』。新潮社 図書館で借りた分厚いハードカバー版より)
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「・・・我々が入手した情報を要約しよう。
殺されたイアン・パトリックには、ほかに三人仲間がいた。いずれも同じ時期に我々の組織から無断で逃亡し、行方をくらました。フランス情報部によれば、イアンを含むこの四人は、1978年3月にある男を殺害したということだ。殺害はIRAではない何者かに依頼され、四人はそれを実行して国外に逃亡した・・・。この、二万ポンドという額を覚えておいてほしい。一人あたま五千ポンドと考えれば、傭兵の報酬として多くないが、少なくとも、殺された男は二万ポンドはたく価値のある男だったということだ。
ところで、信じがたい話だが、四人は自分たちが誰を殺したのか知らなかったというのだ。彼らが知らされていたのは、車のナンバーと車種と、その車が殺害当日に置かれていたアントリムの駐車場の場所だけだったという。
もちろん、殺害を依頼した人物も、氏素性は一切分からない。唯一、依頼者と会ったことがあるのはリーダーだったイアン・パトリックだけだが、彼も依頼者の素性は知らなかった。
分かっているのは、その人物が《リヴィエラ》というコード名を使っていたこと、年配の東洋人の男だったこと。白髪の東洋人。それだけだ。」
リヴィエラ・・・・・・?
「リヴィエラ・・・・・・?」 と、シンクレアも呟いた。
「海水浴場のリヴィエラだ」とシーモアはあっさり片付けた。
「さて、イアン・パトリックがアパートで射殺されたと知ってすぐ、残る三人の仲間は国外に出た。パリの当局の話では、この三人を追って傭兵が暗躍していたとも聞く。問題はこの三年、一応無事だった彼らが、なぜ突然追われ始めたか、だ」
そう語りながら、シーモアは問いかけるような目をシンクレアに据えた。シンクレアは速やかにそれに応じた。
(同、P76より)
- リヴィエラを撃て〈下〉 新潮文庫/高村 薫
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☆図書館で借りてきたハードカバー。上下2段にくんで547ページ。厚さ5cmくらいの分厚い長編です。IRAやCIAやMI6や、日本外務省や中国、モスクワ、もうオールスター総登場で、これぞ国際スパイ小説。
文章に心地よいリズムの緊迫感が満ちていて、ついつい夜中まで読みふけってしまって、しかも読み終わらず、翌日、ふらふらと寝不足に。。。危険な本です。単に、私の自己管理能力が低いのかもしれませんが・・
ちょっと鬱っぽく弱っている体には、劇薬かも。
テロの作戦実行現場なども非常に詳しく書かれていて、まるで自分がその場にいるかのよう。フィクションとわかっていつつも、わりとそうだったのかも、と思ってしまうような当時の国際情勢や、武器やら爆薬のことやら、詳しく書かれた文章を丹念に読んで、雑学的知識が増えるような気がするのも楽しい。
しかし、影響されやすい私は、登場人物たちの深い虚無などがこたえます。そして、こんな小説を書ける作家さんの頭の中って、どうなっているのかと本当に不思議です。まさか、実際にテロ組織にいたことがあるとか・・? 取材と本と想像力とで、こんな風に書けるものなのだろうか。うーん、不思議。。
でも、研ぎ澄まされているのは、いいな。
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「寒いね。ともかく帰ろう」
シンクレアの声は飄々としていたが、そうして歩み出す前にさっと暗がりに目を配った横顔は、やはり厳しかった。天性の勘だけでない、鍛えられた特別な神経が覗いている顔だった。見慣れたピアニストの典雅な顔のすぐ裏に、誰も知らない別人の顔が張りついているかのようだった。
互いに何も言わずに歩いた。セメントの瓦礫や無人の建物のすみずみに、シンクレアはそれとなく目を配り続けていた。地下鉄駅の手前で左に折れ、やがて聖ジョージ教会の尖塔が見えてきたころ、シンクレアは初めて足を止め、今歩いてきた路地へちらりと振り向いた。尾行がいないか確かめる目だった。そうして再び歩き出した。
(P89より)
☆訓練をした人々は、背中で気配を感じ取れるのでしょうね。
武道の先生も、周囲の半径1kmくらいに何が起こっているかは、目をつむっていても感じ取れる、というようなことをおっしゃられておりました。そうやって、道場で教えながら気を張って、ヘンな人間が近づかないように(・・・道場破りとか? じゃなくて、不審者とかですね) つねに警戒している、道場を預かる者として当然の心得である、と。
私もまねして、私には背中にも目がある、半径100m、200mと気配を感じ取れる、あの人はいま駐車場についた、かなあ・・・みたいなイメージトレーニングをしてみていますが、(あほ?) なかなか。でもこれ、できたらいいな。
昔の人は、わりと普通にできたというし。朝起きて外に出たら、お、今日はとなりの山から権兵衛さんが昼ごろ降りてくるな、昼飯はやつの分も用意しておいてやろう、とわかって、別に何も連絡もないのに、本当に昼にはちょうど権兵衛さんがおりてきて、一緒にお昼食べる、みたいな感じ、だったらしいです。
そうやって、気を研ぎ澄ましていくと、周囲の動きが感じ取れて、やがて国とか世界の動きが肌身に感じ取れて、事業をやっても抜群に成功していけたりするのでしょうか。
