お盆も終わり、少し暑さにも和らぎが感じられますね!私も1日だけ夏休みをもらい、三連休にしてお盆気分を味わいました😆❗️

実家に行く途中、虹を見ました。


お盆には、日帰りで実家に集まり、久しぶりに兄妹家族で宴会。コロナ禍だけど、持病持ちも高齢者もいないからまぁいいか。楽しかったです。

兄妹仲良く語らうのが亡くなった両親への一番の供養と思っていますが、両親の介護と看取りには3人兄妹それぞれに口には出せない思いがありました…。


母を四年前、父を三年前に看取るまでの5年くらいは、皆が心に重い岩を抱えているような、そんな毎日でした。


父が認知症を発症したのが亡くなる10年ほど前。

早くに服薬治療を始めたからか、最初の5年くらいは介護もほとんど必要なかった。



本人も病気を自覚していて、必要なケアは母がしていました。5年が過ぎた頃、母の様子が少しずつ変になってきました。


父の認知症状が少しずつ強くなり、いよいよ車の運転はさせられないように。

母は運転が出来ないから、父の運転で出かけることが出来なくなり、そのストレスか?と最初は思っていました。

穏やかだった母が父に大きな声をあげることが増え、次第に台所のガスレンジを止め忘れたり、買い物で小銭が出せなくなったり…。

同居する兄は、おかしいとは思いながらも、どこか現実に向き合いたくないように、ぼやきながらも受診をさせない。

姉と私は離れて暮らしているからこそ、母の変化を感じていたけど、ここが難しいところで😅、嫁に出た娘たちが兄や兄嫁を差し置いて、出過ぎたマネをしずらいと言いましょうか。


結果、叔母の力添えもあって、ようやく受診した母に見つかったのは、大脳皮質基底核変性症という難病でした。いわゆるパーキンソン病に似たような症状があり、認知症状が出ることも多く、いずれ寝たきりになる病気です。難病だから治療法はない。

私も含めて兄妹は皆、いや母本人も父の介護は、母がするのだろうと思っていました。特に同居していた兄夫婦は、それまでも母が子育ても家事もしていた中で、まさか父と母の介護を同時に自分たちがするとは思っていなかったそう。


母の発病、父の認知症の進行。

ここからの5年間は本当に…。

兄は会社を辞めて新しい仕事を始め、ただでさえ混乱していた時期に、両親の介護が降りかかってかなりのストレスと動揺を隠せないようでした。

兄嫁は勤務のある身だったから、兄なりに自分の親の面倒をみなければという気負いと、思うようにならない焦り。


可哀想だったのは当時中学生だった一番下の姪。働く兄夫婦に代わって両親が育てたような子だったから、かなりのおじいちゃん、おばあちゃん子だったのに、大好きな祖父母がどんどん壊れていく様子と、介護でストレスを溜めていく両親を目の前にして一時はかなり荒れました。今思えば辛い心の叫びでしかなかったのだれど、兄夫婦にはその気持ちを充分汲み取る余裕がなかったのではないかと思います。

ただ彼女が偉かったのはそこを乗り越えて、積極的に祖父母の介護を担い(いわゆるヤングケアラーでした)、今は天職として介護士をしています。


父も母も状態が落ちていき、小規模多機能型介護の利用を経て、母は難病対応ができる療養型病院へ入院。最後は食事が取れなくなり、病院も胃ろう増設による延命は進めない方針だったので看取りで亡くなりました。

声も出せないし、表情も作れない状態だったから母の気持ちはわからない。

延命をしない判断を下すのは本当に辛かったけれど、今となっては働き者の母だったから、あの状態で生き続けることは望まなかったのではないかとようやく思えるようになりました。

こう思えるまでには時間がかかりましたが。


父は母が亡くなった後、特別養護老人ホームに入所したけれど、何度目かの脳出血で嚥下が出来なくなり、看取りを決断して亡くなりました。


両親の介護と看取りには、思う事もたくさんありました。当然、5年の間に二人の状態がどんどん悪くなる切なさ。話しが出来なくなり、歩きや排泄が難しくなって、入退院を重ねてやがて寝たきりになる。家族はその切なさと、一方で仕事や子育てと介護を両立する困難さに向き合う。


これまで家事も育児も妻と両親に任せきりだった兄の混乱は今なら相当なものだとわかります。

けれど当時の私は「なぜもっと優しく接することができないのか?」という兄への気持ちを抱えていました。

時に感情的になりすぎる兄がそのまま両親にそれをぶつけてしまう様子があまりに切なくて、正直なところ、施設に入所した時には本当にほっとしたものです。

今だから書きますが、虐待すれすれのところもあったのではないかと心配していました。


両親が自力で嚥下が出来なくなった時に、胃ろうでの延命はしないと兄夫婦が決めた時も、姉と私には迷いがありました。

私は離れているけれど、近くに住む姉はもっと日常的に見えるものがあって、思いがあったよう。

今になれば、それは兄夫婦にしても同じだったはずです。なぜ自分たちだけが介護のほとんどを担うのかと。

私たちにしてみれば、踏み込めない部分があったのだけれど(実家で暮らすことを望む両親を別の場所に連れていくわけにはいかないし、かと言って私たちが実家に入り浸るのは嫌でしょうから)。

当時の私たちには相容れなかった気持ち。


それでも私たち兄妹はギリギリのところで踏みとどまった。その気持ちをお互いにぶつけることはせず、こらえることが出来ました。


両親の介護の時期、私は奇しくも介護に関わる部署で仕事をしていました。

現場の仕事ではなかったけれど、立場上、たくさんの方から介護の悩みや相談、苦情を聞き、介護現場からの声も聞くことが多かった。

やはり一緒に暮らす子どもと、離れて暮らす子どもの意見の食い違いによるトラブルは多く、仕事として第三者で見れば容易に推測できるもの。

介護をしていた義母からも「介護はしてみないと絶対にわからない。だから介護をしていない人にアレコレ言われるのが一番イヤ。」と聞いていたし、兄夫婦が面倒を見てくれる以上、私たちは一線を越えてはいけないと、姉とはよく話していました。


二人を看取り、時間が過ぎて思うのは、どちらの気持ちも間違いではないということ。

介護をしていた兄も、別に暮らしていた姉と私の気持ちも。

皆、それぞれに大好きな両親のことを思っていただけ。だけど、人間は自分の立つ場所から見える景色が全てだと感じてしまう。

思ったままに相手に自分の気持ちを伝えることも時には大事。だけど、相手がどのような立場にいて、どのような景色が見えているのか?

人間は未熟だから思いやる余裕が持てないのなら、ありのままの気持ちを伝えるのは少し待ってみた方が良いのかもしれません。

言葉の刃は、時に決定的な傷を残すから。


父の施設入所が決まった時は特に、ほっとしました。これで父は優しく介護してもらえるだろうし兄も介護のストレスから解放されると。

だけど、亡くなってしばらくして、父が入所のために車に乗った時の写真が出てきて気付いた。父はやはり家が一番好きだったのだと。感情的な兄の態度など父にしてみればいつもの親子喧嘩のようなもの。

ちゃんと父は兄に感謝していたし、兄の気持ちもわかっていたのだと。


介護や相続で兄妹関係が悪くなる話はよく聞きますが、私たちは今も仲の良い兄妹として、共に両親を偲ぶことができます。

皆、心の底に思うところがあるのは当たり前。

それを抑えられるかどうか。そこが頑張りどころなのかもしれない。過ぎてみなければわからないこともたくさんあるから。


いつかは成長する子どもの育児と違い、親の介護は終わりも見えません。身体だって老人のそれは子どもと違って大きくて、かかる労力は比べものにならない。けれど、介護にも必ず終わりはあるのです。

今となっては、親の介護と看取りから人生の大切なことをたくさん教えてもらったなと思います。

人は皆老いるし、いつか人生は終わる。

当たり前だけど、だからこそ自分のこれからの人生は悔いのないよう、大切にしたい。


今、介護の最中にある皆さんがその困難な時間を無事に乗り切れることを祈っています。