1月29日(金) 入院8日目
昨日の診察で予定どおり明日退院出来ることを確認し、主治医に職場に提出する診断書もお願いして、少しずつ復帰の準備。
部長にもメールでその旨、報告を入れました。
人間、どんな環境でも慣れるのと、慣れた環境を変えたく無い傾向が出るので、この3食昼寝付きの生活が終わっちゃうのか〜という思いも少し😅。イヤイヤ、これ以上は。入院費用も嵩むし😤!
たぶん、高額療養費の限度額は適用にならないだろうし。
早く復帰して、稼いで、本当のバカンスに行こう😌。
さて、これまでのブログは充分、私的なものですが、それでも同じような環境の誰かに多少なりとも参考になればと思って書いたものです。
ですが、今日のブログのここから先は本当に私が心の整理のために私的に綴るもの。
退院して忙しい日常に戻れば、しばらくこんな静かに自分に向き合うことはできないでしょうから。社会復帰のための私的なプロセスです。
昨年の元旦にとても親しい幼なじみを突然、亡くしました。
私はその日、夫の両親の金婚式で親族みんなで集まり、ほぼ段取りをまかっていた私は楽しい時間を過ごせて満足して、布団に入りスマホを確認。
そこには、兄からの「さっちゃんが今日、亡くなったそうです」という信じられないメール。
彼女は保育園からの幼なじみ。
家も近所で小学校の頃は毎日、お互いの家を行き来していた。
中学校までは部活も一緒で、登下校も一緒。
お互い農家で、年の離れた3人兄妹で、親の世代も一緒。子供の時は他の友達の母親に比べて、うちの母は世代が上だったから、持たせる物とかもちょっとピントが外れてることがあって😅、さっちゃんも同じだったから、お互いの気持ちが分かり合えた。それにお互い兄妹とも年が離れてて(彼女は一番上のお姉さんと13歳、私は一番上の兄と11歳)、兄妹は遊び相手じゃなかったから、お互いが姉妹みたいなものだった。
田舎で大らかな土地柄で、お互いの家族もそんな私たちをのんびり見ていた気がする。
ちょっと違っていたのは、彼女のお父さんはそんな田舎で、ちゃんと知識のある人で、長女を国立大学に入れて、さっちゃんにも勉強は大事だよといつも言っていた。
反して我が家の父は、小学校の卒業式に自分だけ小説じゃなくマンガをもらったと言うエピソードがあるくらいの人で、姉が地元の進学校に進む時も「女の子が普通科なんて。高卒で働いても大卒で働いても、生涯賃金は変わらないんだから」と渋ったような家でした😅(今から40年くらいまえの地方の実情)。
そんな風に育ったから、子供の頃、私は彼女と私のこの先の人生もずっと同じような環境が続くと信じていた気がします。
少しずつ違ってきたのは中学生になってから。
子供の頃はらあまり思わなかったけれど、彼女は怪我をしたり、体調を崩すことが多くなった。
私は相変わらず地味だったけれど、当時、流行していた海外文通を始めて一気に英語への興味が膨らみ、何故か勉強に傾倒し始めた。
結果、私はさっちゃんのお父さんがさっちゃんに入って欲しいと望んでいた地元の進学校(姉が反対されて、でも結局進学したところ)に進み、彼女は別の高校に行った。
そして、高校卒業後は私は東京の大学へ。
さっちゃんは地元の専門学校へ進み、調理師を目指した。
小学校の頃、よく二人でお菓子を作っていたから、元々、彼女の大好きなことではあったよね😊。
少しずつ、環境は変わって離れたけれど、それでもずっと連絡はとっていて、年に何回は会っていた。他の友達とは違う、家族のような特別感はずっと変わらなかった。
今のように携帯なんかないけど、実家の母に聞けば「あー、さっちゃんねー」とすぐに近況もわかった。
その後、大学を卒業し、地元に近い地方都市に就職した私は、そのまま結婚。
さっちゃんは実家にいて就職したけど、車で1時間くらいだったから、たまに遊んだ。
私の結婚式のドレスは私の母と、さっちゃんと3人で選びに行ったし。
けれど、その間、彼女のすぐ上のお姉さんが亡くなって、彼女は残された二人の甥と姪の面倒を見たり、お父さんが倒れで亡くなったり、自分でもパセドー病になって生死の境を彷徨ったりと、かなりハードな人生だった。
結婚して、お婿さんと一緒にお母さんとも暮らしたけど、結婚生活は長くは続かなかった。
彼女とゆっくり会ったのは10年くらい前の小学校の同級会が最後になった。
ちょうど二人目の育休が明けて、子育てのボリュームがマックスになったり、係長になって仕事の責任も重くなって自分に余裕がなくなっていた。
実家の両親も具合が悪くなり、入退院を繰り返していた。
彼女も離婚し、別れた旦那さんとも面識があったから、なんとなく彼女から連絡がないのにこちらから連絡するのも気が引けたというのもある。
この頃には、もう携帯だったし、スマホもあったのに、私は彼女の携帯番号しか知らなかった。
家族同然だと甘えて、彼女の大変な時に私は連絡さえしていなかった。
彼女が亡くなったのは、検査入院をしていた病院のベット。年末までは仕事もしていたそうだけど、体調が悪化していたので年末年始を使っての検査入院。命の危険がある状態とは医師も本人も思わず、その日も普通に夕食を食べ、夜、看護師さんが巡回した時もぐっすり眠っていたそう。次に夜中に巡回した時には既にベットで亡くなっていたと言う。
病院にいても、亡くなる時は亡くなる。
彼女の話を聞くと、本当にどうしようない何かを感じる。
連絡を受けて、駆けつけるとすぐにお母さんが気づいて声をかけてくれた。
どうやら家族葬だったようだけど、お葬式には出させてもらった。久しぶりにお母さんや、お姉さんとゆっくり話をした。
なんでずっと連絡を取らなかったんだろう。
どんなに後悔しても二度と会うことは出来ない。
それでも、可愛かっていた姪ごさんの結婚式の時の写真だと言う遺影が、ものすごい笑顔で救われた。
お葬式には、その姪ごさん(亡くなったお姉さんの娘さんで、彼女がずっと面倒を見ていた)も来ていて、少しだけ話した。
小さい頃、さっちゃんに連れられてよく一緒に出かけたものだけど、やっぱり覚えてはいなかったけど。
亡くなる少し前に初めての赤ちゃんが産まれて、入院前にもさっちゃんが赤ちゃんを見に来てくれたと話していた。
さっちゃんは病気もあったし、自分で子供を産むことはなかったけれど、姪ごさんが娘のようなものだったろうから、人生の最後に嬉しいことがあって本当に良かったと思う。
今となってはこんな風にさっちゃんの話を出来る地元の友人もいないので、ずっと一年間、自分の心にためてきた後悔の念。
ようやくここで、言葉にさせてもらって、整理をつけて、前に進もうと思う。
さっちゃんのお母さんから「幸子のかたわれなんだから、幸子の分まで、長生きしてね。」と言ってもらった。そうですね、生きている人間は、生きなければいけない。
さっちゃん、お疲れ様でした。
同じような環境で生きていくのだと思っていたけど、あなたの人生は思っていたより随分と波瀾万丈だったよね。でも、私が知らない楽しいことだって、きっとたくさんあったよね。次に生まれて来る時は、もう少し穏やかな人生だと良いとは思いますが。
私が生きている限り、あなたのことは私がずっと覚えているよ。
人生がいつまでなのかは誰にもわからない。
どんなに親しい人だって、最後は一人で逝く。
うちの両親だって、結局、お互いの死に目にも会えなければ、葬式に出ることだって叶わなかった。でも、そんなものかもしれないね。
だからこそ、人と関わる時は悔いのないように、きちんと心を配って向き合わない時いけないね。