山本宣治は治安維持法で虐殺された一人である。没年1929年3月5日(満39歳没)という若さでした。
また、「山宣一人孤塁をまもる。だが私は淋しくない。背後に大衆がいるから」は、いまも多くの人の胸に刻まれています。
■■治安維持法で弾圧され、多くの国民が犠牲を被った。治安維持法が制定された1925年から廃止されるまでの20年間に、逮捕者数10万人、送検された人75681人、虐殺された人90人、拷問、虐待などによる獄死1600人余、実刑5162人に上っている。
 山本宣治は、1889年、京都府京都市の新京極で、花かんざし屋のワンプライスショップ(今でいうアクセサリー店)を営む山本亀松、多年の一人息子として生まれた。両親は熱心なクリスチャンだった。宣治の名は宣教師の「宣」に因んだ。宣治は厳粛な耶蘇教主義の下に薫陶された。
 1901年、神戸中学校に入学したが、身体虚弱のため中退した。両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った。
 園芸家を志して1906年、大隈重信邸へ住み込み、園芸修行を行う。1907年からカナダのバンクーバーに渡る。5年間、皿洗い、コック、園丁、鮭取り漁夫、列車給仕、伐木人夫、旅館のウェーター等30余種の職業を転々として傍ら小学校、中学校に通う。1911年父が病気のため急遽帰国する。この間に『共産党宣言』『種の起源』『進化論』などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深めた。
 1912年、同志社普通部4年に入学する。1914年、丸上千代と結婚し、長男英治が誕生。1917年、28歳の時に第三高等学校第二部乙類を卒業し、東京帝国大学理学部動物学科に入学する。1920年、同大学を卒業した。論文は『イモリの精子発達』。理学士の称号を得た。
 大学を卒業して直ちに京都に帰り、京都帝国大学大学院に入学、染色体の研究に着手する。傍ら同志社大学講師として『人生生物学』、『性教育』を講ず。1921年、京都帝国大学医学部講師として大津臨湖実験所に通う。
 1922年3月、訪日していたアメリカの産児制限運動家マーガレット・サンガーと意見を交換して熱心な産児制限研究家となる。サンガーに啓発された山本は、性教育啓蒙化の普及と産児制限の必要性を痛感し、安部磯雄や義弟の安田徳太郎と共に「産児制限運動」(山本自身は「産児調節」の語を使った)を展開していく。同年4月、サンガーの著書を『山峨女史家族制限法批判』のタイトルで小冊子に翻訳し発行。同年12月、来日していたアインシュタインを安田徳太郎と訪問し、翻訳していたゲオルグ・ニコライの『戦争の生物学』の序文の執筆を依頼している。
 1923年、京都帝国大学理学部講師となる。各地に於いて性教育、産児制限の講演を行う。産児制限運動で知り合った三田村四郎・九津見房子夫妻と共に「大阪産児制限研究会」を設立。山本は彼らを通じて左翼系の社会運動との関わりを強めていった。8月5日、『性教育』刊行。
 1924年1月、西尾末広などが設立した「大阪労働学校」の講師に就任。同年3月には「京都労働学校」の校長に就任する。しかし、同年5月、鳥取で産児制限の講演を行った際、その内容を警察官に激怒され、この出来事が新聞に載ってしまう。これが原因で山本は京都帝国大学を追放された。同年6月、大山郁夫らにより設立された「政治研究会」の京都支部設立に参加する。同年に既存の産児制限の理論とは違うアプローチをした「産兒調節評論」(後に「性と社会」と改題。別名Birth control、産児調節評論)を出版する。
 1925年、京都学連事件のため12月家宅捜査を受ける。1926年、同志社大学を辞めさせられた。同年に『性と社会』は廃刊。
 同年3月、京都地方全国無産党期成同盟に参加する。同年5月、労働農民党(労農党)京滋支部に参加。同年6月、京都で小作争議が起こりこれを指導する。 同年10月、議会解散請願運動全国代表に就任する。ここから山本は全国的に有名になる。
 1927年5月、普通選挙を前にした衆議院京都5区の補欠選挙に労農党から立候補要請を受ける。 当初は病気を理由に固辞していたが、水谷長三郎にまだ被選挙権が無かったことや共産党の要請もあり、労農党公認で立候補した。 489票で落選したが(当選は立憲政友会の垂水新太郎、4843票)、制限選挙であり、この時点で有権者であった中産階級以上と対立する政策を掲げたことを考えれば善戦といえた。
 同年8月、父・亀松が死去し「花やしき浮舟園」の主人になる。
 同年12月、労農党京都府連合会委員長に就任する。
 翌1928年の第1回普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)に京都2区から立候補し、1万4412票で当選した。 労農党からは水谷長三郎と2人の当選したが、山本は共産党推薦(当時は非合法のため非公式)候補であり、反共主義者の水谷とは一線を画した。
 同年、三・一五事件では事件を事前に察知していた谷口善太郎からの忠告を受け共産党関連の書類を全て処分していたため、事無きを得る。 しかしこの頃から、山本への右翼による攻撃が始まる。
 第55・56回帝国議会では治安維持法改正に反対した。
 1929年3月5日、衆議院で反対討論を行う予定だったが、与党立憲政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決された。 その夜、右翼団体である「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。
 死後、日本共産党員に加えられた。なお、母の多年も戦後共産党に入党している。 子は男3人女2人いたが、遺族は第二次世界大戦敗戦まで警察の干渉に悩まされた。 墓碑についてはこれは墓ではなく記念碑であるとして記念碑建立の手続きをさせ、数年間許可を出そうとしなかった。 碑文についても文句を付けられ、セメントで塗り潰すよう命じられた。 また、長男は三高と早稲田を受験したが、「自分の信念を突進んで大衆のために死んだ」父を尊敬していると面接で述べたところ、いずれも落とされてしまった(その後関西学院に入学した)。
 1929年3月4日労農党の代議士山本宣治は、大阪で開かれた全国農民組合大会でこう演説した。
『「「諸君!──この大会を見るとき、諸君の階級的精神は、勇敢な議案に現われています。この無産階級運動への勇ましい門出を象徴する大会に、祝辞をのべることは私の光栄とするとこ ろであります。我々の戦闘は日に日に激しくなり、今まで我々の味方として左翼的言辞を弄していた人まで日に日に退去し、我々の頼みになると思っていた人まで我々の運動から没落して行きました。彼らは、合法主義たとか何たとかいって、去って行きます。しかも、これらの人人にたいして、支配階級は公認し、保護をあたえています。たが、こうした人々にたいして、我々のあたえる言葉はこうである──卑怯者、去らば去れ、われらは赤旗を守る!………」』
 ここで臨監の警部が「中止!」を命じた。
 この治安維持法改正案が議会に上程されるとき山宣は自分の書斎の壁に、「戦争撲滅」と書いてかかげていたが、彼はこの悪法の彼方に侵略戦争があることを鋭く見抜いていたのである。
 翌3月5日、山宣が危惧していた通り本会議での彼の反対演説が封じられ採択の結果。「治安維持法改正案」は賛成249、反対170で可決した。
 その日の夜の9時半ごろ、彼の常宿の神田光栄館に紺がすりの着物を着た大柄の男が訪ねてきた。・・・
 山本宣治の墓は京都府宇治市の自宅「花やしき」の近くにあるが、墓石の裏には大山郁夫書による次のような墓碑銘が刻み込まれている。
山宣ひとり孤塁を守る
だが私は淋しくない
背後には大衆が支持してゐるから
■意図的に右翼に襲撃させた
 犯人たちはかねてより山本宣治を殺すを言っていたのに刺殺された3月5日に限って、いつもついている私服がついてなかった。警察当局が意図的に警備を外したのではと思われる。
 体制側にとって好ましい殺人犯。わずかな期間で保釈された。
※山本は、治安維持法」下での拷問として、国会衆議院で質問をしている。
『こういう風な(拷問の)実例は多くあります。用いられた道具は例えば鉛筆を指の間にはさみ、あるいは三角型の柱の上に坐らせてその膝の上に石をおく、あるいは足をしばって逆さまに天井からぶら下げて、顔の血液が逆流して気絶するまでうっちゃらかしておく、あるいは頭に座布団をしばりつけて竹刀でなぐる。あるいは胸に手を当てて肋骨の上をこすって混迷におとしいれる。あるいは生爪をはがして苦痛を与える、というような実例がいた
るところにある。・・・ただいま申し上げました実例にかんしては、全部責任ある事実にもとづいた陳述である。これにかんして当局が如何にせられるか、とにかくわれわれは、あくまでこの現代の社会における97%を占むる無産階級の政治的自由、これを獲得するために、こうした暗淡たるこの裏面には、犠牲と、と、涙と、生命までをつくしておるということを申し述べて、私の質問を打ち切ります。(1929年2月8日、山本宣治(労農党)の衆議院における質問』これが山本の最後の質問になり無念であったと推測する。
■最後に山本宣治記念碑についてである。
 長野県上田市、農民組合連合会が山本宣治の死を深く悼み、翌年抗議の意を秘めて記念碑をタカクラの借家(斎藤房雄氏の 家・タカクラ・テル宅)の庭の一隅に建立する。1933年県下最大の弾圧事件であった「2・4事件」で、テルは、逮捕、家族は県外追放となる。警察は家主の柏屋別荘の主人斎藤房雄氏に、碑の取り壊しを命じたが、氏は碑を密やかに自宅の庭に埋め、38年間守り通す。
 戦後、再建委員会を結成、多くの協力を得て1971年10月、碑はこの地に再建された。
■山本薩夫監督による映画『武器なき斗い』
 「京都府宇治市の料亭花やしきの経営者夫婦のもとに生まれた山本宣治は、同志社大学の講師を務め、性教育の啓発や産児制限運動に関わっていた。やがて労働農民党の京都府連合会委員長となり、第1回普通選挙で当選して代議士となる。治安維持法改正に反対し、国会での質疑を準備している矢先、山本が泊まる東京の旅館に見知らぬ男が訪ねてくる。」ような内容である。
●最後に山本宣治は、京都大学や同志社大学で生物学を教えていた学者でしたが、ただ学生に学問を教えるだけで満足せず、貧しい労働者・農民にまじって産児制限運動など世の中をよくする運動に身を投じます。1928年労農党の代表として京都二区から衆議院議員に当選。戦争へと国民を引きずって行こうとしていた政府の政策に反対している。
●日本共産党は、民主主義と自由のために生命をささげた彼をたたえ、死後、党員としての資格をもってとむらうことをきめ、前年死亡した渡辺政之輔とともに労農葬をおこないました。