本男子のトップ3は、みなそれぞれに玄人好みのスケーターだ、といわれている。
 3人が3人とも違う個性をもつ。そしてそれぞれが、フィギュアスケートをよく知る審判やスケーターたちに愛され、尊敬されるスキルを持っている、と。
 織田信成(関西大学)、小塚崇彦(トヨタ)、高橋大輔(関西大学)。三人三様のフィギュアスケートの魅力、三人三様の資質が、この日ほどはっきりと表れた夜はなかったかもしれない。


■織田のジャンプのプロポーション

 全日本選手権ディフェンディングチャンピオンにして、グランプリファイナル銀メダリスト。織田の一番の魅力は、何と言ってもあの究極にナチュラルなジャンプだろう。
 フリー冒頭の4回転トウループは、残念ながら転倒。だからこそ逆に際立ったのかもしれないが、4回転以外の7つのジャンプが、この日は本当に流れるような、そこでジャンプを跳ぶことがあまりに自然に見えてしまう跳躍だった。

 フリーの最終グループ、今、日本のトップレベルの選手たちが集った場で、小塚や高橋大輔と比べてみても、そのジャンプの自然さは群を抜いている。すーっと流れていく助走、歯切れよく力みのないテイクオフ、ボールが跳ねとぶような跳躍、そして氷にキスをするような軽やかな着氷、その後の気持ち良い流れ……。
 女性の身体の美しさが絶妙な配分率(プロポーション)で決まるように、フィギュアスケートのジャンプも、助走スピード、飛距離、回転速度、跳躍の高さといった動きの一つ一つを数値にしてみると、究極のジャンプは現れてくるのだと思う。そして織田のジャンプの持つ数値は、究極に美しく、見ているものを心地よくするジャンプのプロポーションに最も近いのではないだろうか。

 もちろんジャンプにもさまざまなタイプがあって、ブライアン・ジュベール(フランス)や無良崇人(中京大学)、伊藤みどりのような豪快なジャンプには、また別の理想的な数値があるのだろう。彼らのジャンプに人々は興奮し、魂を揺さぶられもする。しかし織田のジャンプはジャンプでありながら、見る人の心を優しく撫で上げるような心地よさがあり、4分30秒の間、彼のジャンプが次々と、何の心配もなくあたりまえのようにそこに現れては消えることにうっとりとしてしまうのだ。
 実は織田自身は、平気な顔をして何事もないようにジャンプを跳んでなどいない。よく見れば序盤のトリプルアクセルなど、ものすごい形相で立ち向かっていっているし、こちらが安心して見られるあの精度を得るためには、いったいどれだけの練習を積み上げてきたのか、想像することもできない。


■滑りで音を表現する


続いて小塚の最大の魅力は、誰もがあの滑りだというだろう。
 滑りさえ巧ければあとは何もいらない、というスケートファンはとても多く、小塚の滑りはそんな多くの人々に愛されている。ときにはトッド・エルドリッジ(96年世界チャンピオン)や佐藤有香(94年世界チャンピオン)といった、近年最も美しい滑り持つチャンピオンスケーターたちに比肩するとさえ言われている。それだけでもう彼は十分に玄人好み、殿堂入りスケーターといえるのだが、今シーズンの小塚は滑りが美しいだけでない、スケーティングをベースにしたプラスアルファを急速に身につけてはいないだろうか。


 フリープログラムはショートと同じく、エレキギターの音が印象的な楽曲(「ギターコンチェルト」)。その4分30秒の演奏時間の最初から最後まで、小塚の滑りと身体の動きは、音そのもの、音楽そのものと一体化してしまうのだ。
「お客さんがどう見てくださっているかは、わかりません。でも僕としては、自分の動きがちょっとずつギターの音に近付いてるかな、と思う」
 その曲のリズムにきれいに乗ることとは、違う。音楽の雰囲気を表わす、とも違う。音楽が描く物語を表すこととも、もちろんまったく違う。ただただギターが激しい叫び声をあげたときには、小塚の身体もまったく同じ激しさを表し、ギターが神々しいフレーズを奏でるときには、彼の身体ができる最も神聖な動き、たとえば美しいイーグルを見せる。


 昨年、瑞々しい恋模様を描いたフリー「ロミオとジュリエット」を完成させたにも関わらず、「僕のスケートの持ち味は、感情や物語を表すことじゃないと思うんです。滑りで『音』を表現する、そして見ている人が気持ちよくなってしまう、そんなスケートが僕のカラーなんじゃないかな」とシーズン最後に小塚崇彦が言ったときには、まだ彼の目指すものがどんなスケートなのか、正直に言えばよくわかっていなかった。
 夏のアイスショーで「ギターコンチェルト」を見たときにも、あまりピンとこなかったし、これならば「ロミオ」の方が素敵ではないか、とさえ思った。しかし今、全日本選手権のフリーを見せつけられた今なら、彼が滑りで表現するのは感情ではなく、音楽なのだ、ということの意味がよくわかる。


 ひたすらに美しいスケーティング、その滑りが、音楽そのものになる。そんな小塚のスケートが完成した時、彼はきっとスケーティングの達人だったチャンピオンたちに例えられることさえなくなるだろう。誰ともまったく違う、美しいだけでなくゴージャスな、ただひとりの音を滑るスケーターに。
 究極のスケーターの一人に、彼ならばなれるかもしれない。


■高橋の「表現力」

そして2年ぶりに全日本チャンピオンに返り咲いた高橋大輔。彼の魅力をひとことで表すことが、実は一番難しいと思った。ほとばしるエモーション、存在感、高橋だけのオーラ……。
 よくいわれる「表現力」は、実は「表現技術」なのだという専門家がいる。確かに、腕をこう動かせばドラマチックに見える、脚を上げる角度を少し変えるだけで、大きく見える。そんな技術は確かにあるし、とびぬけて見せ方のうまいスケーターもいる。しかし表現「技術」だけでは、何度でも同じ動きを繰り返して見せられるからくり時計や仕掛け人形と同じになってしまう。高橋は機械仕掛けなどではなく、今ここに生きているスケーターで、彼の見せるものはいつだって違う。滑るプログラムによっても、その日の演技によっても違うし、同じ日の同じプログラムでさえも、見る人によって感じ方は大きく違うだろう。


 全日本選手権の高橋の「道」を見ることで、さまざまなことを人は感じたようだ。ある人は「高橋大輔の歩んできた道のりを感じる、重みのあるプログラム」だと言った。またある人は「彼がどこかに遊びに連れて行ってくれるような、楽しいプログラム」だと言う。さらにある人は「主人公の切なさに涙が出てしまう。ジャンプが成功するか否かに関わらず、プログラムが泣かせてくれる」と。
 彼の見せるさまざまな表情、さまざまな感情――高橋の表すものは、言ってみれば人間そのものだ。生きている人間の幸福であり、悲しさであり、激情であり、穏やかさ。そういったものをフィギュアスケートで見せられることが、高橋のスケートの最大の魅力かもしれない。
 またそれは、織田のジャンプ、小塚の滑り、のような純粋にフィギュアスケートだけの持つ技術ではない。ジャンプや滑りはスケーターでなければ見せられないが、高橋はあるいは舞台役者やダンサーであったとしても、その魅力を発揮していただろう。しかしフィギュアスケートのすごいところは、陸上では決して出せないあのスピード、そして滑るという美しい動作に乗って表現ができるということ。そのことをたぶん高橋はわかっていて、スケートをしている。他のジャンルでもできたかもしれない表現。でも彼の滑りがそこに伴えば、感情はもっと増幅して伝えられるし、スピードに乗った動作はもっと広い空間を支配できる。フィギュアスケートだからこそできる「表現」が、高橋大輔の見せてくれるもの、見せようとしているものではないだろうか。


■世界一の武器

 日本を代表する3人のスケーターたち、三人三様の魅力。もし3人が3人とも最高の力を出せたら、3人のうち誰が勝つか。それは織田vs.小塚vs.高橋の対決であると同時に、フィギュアスケート最大の魅力は何か、の戦いにもなるかもしれない。ジャンプなのか、滑りなのか、表現なのか……。
 もちろん彼らは、そうした見方に不満を漏らすだろう。「俺はジャンプだってうまいし!」「他のことだってちゃんと練習してるし、見せられるよ!」と。確かに何かひとつが突出していただけではフィギュアスケートは成立しないし、特に現在のルールの元では勝つことができない。
 しかし彼らはそれぞれが、ジャンプの、滑りの、表現の、エキスパートであり申し子だ。天から与えられた才能であり、それぞれに努力を積み重ねて伸ばしてきたものであり、多くの人に愛される武器だ。
 思うような表現ができていない、4回転が跳べない、こんな演技じゃ、五輪で勝てない……今、3人はそれぞれが反省しつつ、悩みつつ、自分にまだまだ満足することなく、大舞台を遠くに見ている。
 しかし3人には、それぞれに強力な武器があるということ。その武器に関しては、3人それぞれが世界一で、誰にも負けることはないということ。そのことにもう一度気づいて、大きな自信を持って、誇りを持って……五輪の舞台を堂々と見つめてほしいと思う。