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光源氏の恋の動機…母の喪失と満たされない思い

『源氏物語』ともののあはれ(2)光源氏の喪失感と許されぬ恋

 

板東洋介

板東洋介 筑波大学人文社会系准教授

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当時からして多分にスキャンダラスな内容が綴られた『源氏物語』。主人公である光源氏は、なぜ禁忌とされる義母との恋に突き進んだのか。そこには幼くして母を亡くした光源氏の満たされない思いがあった。『源氏物語』の本文を参照しながら、光源氏にあったただならぬ喪失感に迫る。(全5話中第2話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)

時間:09:29
収録日:2023/08/04
追加日:2023/11/09

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●母の不在がもたらした藤壺への恋情


―― それではこの『源氏物語』で、先生に何カ所か読むべき箇所ということでピックアップいただいています。先生、ご解説いただいてもよろしいでしょうか。

板東 はい。



―― まずこちらのところで、これは『源氏物語』の「桐壺」ですね。

板東 はい。第1巻ですね。

―― 第1巻のところですね。「〔光源氏は〕母御息所〔=桐壺更衣〕も、影だにおぼえたまはぬを、〔藤壷が〕「いとよう似たまへり」と典侍の聞こえけるを、若き御心地にいとあはれと思ひきこえ給ひて、常に参らまほしく、なづさひ見たてまつらばや、とおぼえたまふ。」というところですね。これはどういう箇所なのでしょうか。

板東 これは光源氏の母親である桐壺更衣が亡くなった後で、大変彼が寂しく暮らしていた。そうしたら、先ほどお話ししたように、父の桐壺帝が息子に母親の代わりを与えようという気持ちもあって、母親そっくりの藤壺を新しく妻にしたわけです。そうすると、源氏の周りで彼の世話をしていた女房たち(女性の使用人の人々)が新しく入内された藤壺という方はお母様に大変よく似ていらっしゃるようですよと、寂しい光源氏を慰める気持ちもあってそう語ったわけですね。

 彼が3歳のときに(母親は)亡くなり、光源氏は母親の「影だにおぼえたまはぬ」ですから、顔を知らないわけです。そうすると、自分のこの寂しさみたいなものは、母親にそっくりだといわれる藤壺と会えば、少しは慰むのではないか。それで、「常に参らまほしく」なので、藤壺のもとに行って、彼女にある意味で甘えたいと思ったわけです。

 藤壺に対する思いはあくまで母親への思慕であって、異性への憧憬ではないわけですけれども、彼がもうちょっと物心がつくと一種の恋に転化していくわけです。しかも、その恋というのは絶対に許されない恋になる。そういう箇所です。

―― やはり今のお話だけでも、母の喪失、二度と会えない母というところが非常に大きな意味を持ってきそうな感じがありますね。

板東 はい。だからよく、特に現代的な文脈で光源氏はマザコンであるといって、なんとなくカリカチュアライズするというか、笑うような風潮があると思いますが、実際それはそうです。

 しかし、ここの記述で分かるように、それは同情できるというか、彼はある意味でかわいそうですので、皇子に生まれて臣籍降下したといっても、やはり貴族社会のトップだから、端から見たら恵まれているのですけれども、彼の寂しさとか、喪失感というものが本当にどうしようもないということも、われわれは理解できるわけであって、それが彼の恋の始まりになっているということは、ある意味で共感できるのかなというところです。
 

●光源氏をタブーな恋に突き動かした喪失感




―― それでは続いての箇所でございます。これは「若紫」ということで、「言ふかひなきほどの齢にて、睦ましかるべき人にも立ちおくれはべりにければ、あやしう浮きたるやうにて、年月を重ねはべれ」ということでございます。

板東 これは光源氏が、自分がどういう気持ちで生きているかということを述懐したところです。つまり「言ふかひなきほどの齢」ですから、まだ幼いうちに普通の子どもであれば「睦ましかるべき人」、甘えていいような人たちにも「立ちおくれはべりにければ」ですから、早くに先立たれてしまったということです。

 「睦ましかるべき人」というのは、1つには母親の桐壺更衣で、もう1つは母親が死んだ後に母親代わりだった祖母の2人です。結局、普通の子どもならいるような、自分のよりどころにできるような親とか、庇護者が誰もいないということです。

 そうなると、自分は「あやしう浮きたるやうに」、不思議に根っこがなくて浮いているというか、心細く浮き草のように大人になってきた。これは先ほどお話ししたような、光源氏の居場所がないという感覚を示したところです。

―― 印象的なシーンです。やはり喪失感というのがベースには相当あるということになるわけですね。

板東 ええ、私はそう解釈しています。



―― 続けての場所でございます。「この世につけては、飽かず思ふことをさをさあるまじう、高き身には生まれながら、また人よりことに口惜しき契りにもありけるかな、と思ふこと絶えず。世のはかなく憂きを知らすべく、仏などのおきてたまへる身なるべし」というところです。

板東 これも光源氏の自分のあり方を反省しての述懐です。先ほどの「若紫」では光源氏が10代ですが、これは光源氏の晩年ですから、40代か50代です。これはとくに、彼の最後の伴侶になった紫の上に先立たれた後の、失意の源氏の晩年の述懐です。

 これはちょっと難しい言い方をしているのですが、つまり光源氏というのは容姿も能力も、あるいは彼は最終的に出世としては太政大臣、貴族社会のトップに立ちましたので、誰がどう見ても文句付けようのない満たされた人生だったわけです。だから、「飽かず思ふ」ようなこと、飽き足らなく満足できないことなんて、普通に考えたらないだろうということです。

 そのような「高い身」に生まれたのだけれども、前世からの契りも運命で諦めるしかないような悔しいことがたくさんあった。まずは母親がいなくなったことですし、あるいは最愛の相手だった藤壺とも最終的には結婚できなかったわけですし、藤壺の代わりみたいなところはあっても、最後に伴侶になった紫の上とも晩年はけっこういざこざがあって、かつ先立たれてしまったわけで、結局満たされないことがたくさんあったのです。

 光源氏ほど満たされた人であっても、実人生としてはいくつも満たされないことがあったということです。

 そうなると、最後の文章が分かりにくいのですけれども、つまり世の中の人たちからすると、あれだけ満たされた源氏の君であっても、あんなに悔しい思い、悲しい思いをされているのかとなると、源氏ですら満たされないとしたら、ましてや他の人は絶対に満たされないということです。

 この世が源氏ですら理想的な満足とか、幸福に至れないような、根本的に無常なものだ、欠損を抱えたものだということを見せることで、人々を仏の道に引き入れるために、仏か菩薩がわざと仕組んで自分のようなものをつくった、この世に現せしめたのではないか。だから結局、光源氏は最終的に満たされなさを抱え続けていたというところであります。

―― これもまた喪失感というか、たしかに光源氏の立場でそういわれてしまうと、他の人はなんともいえないところになりますけれども。

板東 今でも、やはり誰がどう見ても満たされたとしかいいようのない、家柄や富、社会的な地位がある人でも、外からはうかがい得ないような、一種の喪失感とか、満たされなさというのはあると思われるわけです。

 その満たされなさが、光源氏の場合、最終的に最初の幼時のことがあるので、母親がいないという形で自分の満たされなさを受け取って、なんとかそれを埋めようとした人生であったということです。 周りに迷惑をかけ続けたわけですけれども、そういう喪失感とか、欠損みたいなものが、ずっと光源氏の恋の動機であったということです。それで彼は、絶対恋をしてはいけない相手に恋をしてしまうという、ある意味で逸脱をしてしまうわけです。

―― そういう立場の人の満たされなさを描くところがまた、傑作の傑作たるゆえんというところになるのでしょうね。

板東 おそらくはそうだと思います。

―― 今、何カ所か場所を抜粋いただきましたけれども、このような場所を抜粋された心といいますか、意味合いはどのように考えていらっしゃるのでしょうか。

板東 そうですね。先ほども申し上げましたが、光源氏が一種のモンスターではないということなのです。

 つまり、恋してはいけない相手になんの理由もなく恋をして、社会を引っかき回す、理解不可能な、よく分からない、社会にとっての敵だというようには源氏を語っていないということであって、今お話ししたように、ある程度は同情が可能であるということです。

 しかし、やったこと自体は良くないかもしれないけれども、彼がどうしてそのように破滅に向かって恋に突き進んでしまうのかということについては、ある程度読者が共感できるように書かれているということを、ちょっと見ておきたかったということなのです。

―― はい。

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