中世吉良氏の通説を覆す有力説が、また一つ誕生しました。室町幕府を開いた足利尊氏と共に戦っていた吉良氏が、尊氏とたもとを分かち、南朝方の主力として戦っていた1350年代、「吉良左馬頭(さまのかみ)」という人物が登場します。これまで、吉良氏4代当主・満義と考えられてきましたが、「愛知県史研究」(2014年3月)の中で松島周一さんが花押などを手掛かりに、満義の子・満貞を指すものだと提示されました。

 

松島さんの論文で示された吉良左馬頭の禁制

 

松島さんの論文「室町初期の吉良氏~貞義から満貞へ~」によると、「太平記」などでは南朝方として京都で幕府と戦った武将の中に「吉良治部大輔」があり、これは吉良満貞と考えられるものの、同時期の京都周辺に別の官職名で呼ばれた「吉良左馬頭」の存在を示す文書が3通あるそうです。従来は治部大輔を満貞、左馬頭を満義と別人に考えられてきましたが、その妥当性に疑義を呈したということです。

 

 

いずれの文書も南朝年号である正平を用いていることから、左馬頭は南朝から授けられたものと考えられ、南朝が1351年に左馬頭を幕府側の有力者土岐氏に与えようとしたことから、南朝にとって左馬頭授与は期待を寄せるに値する存在だと認めるのと等しいそうです。52年12月と53年6月には新たな左馬頭が書状、軍勢催促状、禁制の3通を発付しており、書状と催促状の花押は同一で、禁制は催促状の翌日に出されていることから、3通は同じ「吉良左馬頭」が出したものだと断定されました。

 

 

南朝が52年12月までに左馬頭の官職を授けた吉良氏は誰を指すのか――前出の3通ではいずれも『大日本史料』などで満義と断定され、現代の研究でも通説化されているそうです。そこで松島さんが示されたのは、「正平十三年」(1358年)に左馬頭が出した書状です。この書状の花押を前出史料の花押と比べると、ほぼ同じで同一人物とみて「ほぼ間違いない」とのことです。

 

 

もし1352~58年に同一人物が南朝方の左馬頭として活動していたとすれば、1356年に死去している吉良満義ではあり得なくなるとの状況を導き出し、左馬頭を授けられるほど南朝の期待を背負った人物としては、京都をめぐって1353年に幕府と攻防戦を繰り広げた主力である吉良満貞が最もふさわしいと結論付けられました。満義については三河に在国して勢力維持に努めたとの見解を示してみえます。

 

 

【異議あり!】先行研究に学ぶ姿勢を

 

 

さて、ここからは蛇足ですが、この論文を目にした郷土史家の先生の間から、左馬頭を満貞と比定したことに対する高評価の一方、内容の一部について非難の声があがっています。論文は中世吉良氏の3代貞義、4代満義、5代満貞の足跡を整理することが目的とされていますが、貞義の死去に触れた部分で、貞義の父・満氏の死を1285年の霜月騒動に求めたことと、貞義の没年が1343年であることを「初めて確認した」とすることに、異議が唱えられています。

 

松島さんの論文で示された足利貞義の没年史料

 

 

松島さんは貞義の生没年について「不詳というのが現在までの通説」とされ、愛知県史編さんの中で京都五山の住僧による詩文集「無規矩」に収録された法語の前書に注目し、法語で弔われた「総州刺史観公居士」「総州太守実相寺殿象先観公大禅定門」という人物が1343年2月16日に没しており、現代の禅宗研究者が「吉良満氏」を指すとみていることを紹介されました。

 

 

「吾妻鏡」の1252年に初登場する満氏の没年が1343年というのは長命すぎるということで、「鎌倉年代記裏書」の1285年に載せられている霜月騒動で討伐された武将の一人「足利上総三郎」について、「吾妻鏡」で1263年に「足利上総三郎満氏」が現れることから、満氏は「霜月騒動で横死したと理解することが妥当ではなかろうか」との見解を示してみえます。

 

鎌倉浄妙寺にある鎌足稲荷神社(京都陽明文庫蔵の「宮城図」奥

書に「元応元年八月三日 鎌倉大倉稲荷下足利上総前司屋形摸

之了 右筆頼円(花押)」とあり、貞義が1319年に鎌倉の自邸で宮

城図を模写させていることが分かるが、貞義の屋敷近くにあった大

倉稲荷が浄妙寺の稲荷社を指すとの見方が有力という)

 

 

ところが、郷土史家の先生によれば、先行研究で満氏は霜月騒動のころに入道していることなどから、賛否両論あるものの、討伐された「足利上総三郎」は満氏の子・貞氏だと考える意見が大半だということです。

 

 

さらに、「総州太守実相寺殿象先観公大禅定門」という人物について、系図史料と照合しながら満氏ではなく貞義と導き出されたところまではよかったのですが、「貞義の没年が信頼し得る史料によってはじめて確認された」という点については、「『無規矩』に基づく貞義の没年は先行研究で明らかにされている」と先行資料の収拾に乏しい松島さんの研究姿勢を問う声が聞かれます。

 

 

私の手元にある資料を集めてみても、小林輝久彦さんが2008年以前に「無規集」「海蔵和尚紀年録」から貞義の1343年2月16日死去を明らかにされていますし、谷口雄太さんが修士論文「中世吉良氏の研究」(2009年12月)で、「無規矩」「虎関紀年録」の1343年2月16日に登場する「総州太守実相寺殿象先観公大禅定門」「故総州太守」を貞義と判断しています。『十六世紀史論叢』(2013年10月)に収録された谷口さんの「足利氏御一家補考三題」でも、「貞義は1343年2月16日に死去していることが、『無規矩』『虎関紀年録』などの史料から分かる」と記しています。

 

小林輝久彦さんが2008年以前にまとめた中世吉良氏当主の没年など

 

 

中世吉良氏の研究は近年、小林さんや谷口さんによって飛躍的に進歩したはずなのですが、北原正夫さんの「室町期三河吉良氏の一研究」(1983年)や『西尾市史』(1974年)『吉良町史』(1999年)『新編安城市史』(2007年)をもって「吉良氏歴代の足跡はかなり明らかにされてきた」という松島さんの認識は、視野に偏りがあると言わざるを得ません。そこへきて、先行研究に学ぶ姿勢が乏しく、すでに明らかにされている内容さえ「初めて確認した」と記してしまっては、研究姿勢が問われるのも無理はありません。