東大寺二月堂見学の後、正倉院へ行きましたニコ

正倉院は、学校の歴史で習いましたよね~~

実物は、かなり大きいのです!

 

場所が分かりにくくて通り過ぎてしまったのですが

後から来た人たちが立ち止まっているので、発見。

時間が10時開扉なので、しばしば公園で休憩~~

鹿をカメラで撮りましたよブルー音符

正倉院 

 

正倉は前記のとおり、もとの東大寺の正倉で、奈良時代以来宝物を

襲蔵してきた宝庫です。檜造り、単層、寄棟本瓦葺きで、高床式に

造られています。間口約33メートル、奥行き約9.4メートル、

床下約2.7メートル、総高約14メートルの大きさをもち、床下

には直径約0センチの丸柱が自然石の礎石の上にどっしりと立ち

並んで巨大な本屋を支えています。

倉は三倉に仕切られ、北(正面に向かって右)から順に北倉、中倉、

南倉と呼ばれています。北倉と南倉は、大きな三角財(校木)を

井桁に組み上げた校倉造で、中倉は、北倉の南壁と南倉の北壁を

利用して南北の壁とし、東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造

りです。また各倉とも東側の中央に入口があり、内部は二階造りと

なっています。

 なお、宝庫の建築年時については、そのことを直接記録した資料が

ないので、明確ではありませんが、文献に見える記事から、おそく

とも天平邦字年(759)月以前に出来上がっていたことは確実

とされてきました。

 なお、この正倉は、平成年(1997)に国宝(正倉周辺地域は史跡)

に指定され、翌年には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に

登録されています。

「正倉院はシルクロードの終着点である」という言葉は、この宝物の

もつ世界性の一端を言いあらわしたものといえるでしょう。正倉院

宝物は、単に奈良朝文化の精華を示すだけでなく、実に8世紀の世界

文化を代表する貴重な古文化財なのです。(パンフから)

 

3&3&9&4&2&7&1&4=33(11×3)

33&6=39・・・3&9=12(6 6)

3&3&9=6&9=15・・・1&5=6

 

👆

脚の部分は40本なんですね~

40×60=240・・・2&4=6

 

正倉院も含めて、古代の日本の木造建築は「土台の脚と

なる柱の部分」を「突き固め」支持層まで固くしめて、

さらに「自然の強固な大きな石」をドーンと置いて、

太い木の柱(10㎝なんてケチな現代と違って20㎝以上)

を立てて載せていた。正倉院の場合土台の柱は直径60㎝

のぶっとい丸太を使用している。これが4列10本。

40本にて建物を支え強度は問題ない。なお、床面積は

33m(横)×9m(奥行き)で297平方メートル。高さは

屋根まで14mもあるので今の家で3F建分ある。

 

 

 

 

西宝庫は昭和37年(1962)に、東宝庫は昭和28年(1953)

に建築されました。ともに、鉄筋コンクリート造りで、現在は

空気調和装置が完備されています。(パンフから)

 

3&7&2&8=20(1 1)

1&9&6&2&1&9&5&3=36(18 18)・・・(9 9)(11×9)

 

ガラスケースの展示物

 

奥が入口。

椿が一輪咲いていました🏵️

奈良国立博物館では「空海展」を開催中でした~

 

 

正倉院ができたのは、奈良時代の756年6月21日。
聖武天皇の妃だった、藤原不比等の娘・光明皇后(こうみょう

こうごう)が、亡き夫である聖武天皇の七七日(なななのか)

※今で言う四十九日の際に、桓武天皇愛用の品約650点や、

60種の薬物を東大寺の大仏に奉献したのが始まり。

この光明皇后(こうみょうこうごう)は、皇族以外からはじめて

皇后になった女性。

そして、聖武天皇ゆかりの品々は、その後も3度、大仏に献納

されたことから、それらの宝物を大切に保管するため「正倉院」

と言う倉庫が建てられたと言う事になる。

すなわち、正倉院は「院」と名がついていることから、寺など

同じ分類と思う方がいるかも知れないが、倉庫の建物の名称となる。
校倉造(あぜくらづくり)の大規模な正倉(しょうそう) で、

当時は、高床式倉庫として公的な施設に設置されており、主に

穀物や財物を保管していた。
その正倉が何棟も集まった大規模なものを正倉院と呼んでいた。
そのため、正倉院のような建物(倉庫)群が奈良・東大寺にだけ

あったと言う事でもない。
ただし、奈良時代には建物がいくつもあったようだが、平安時代

末期には現存する宝庫1棟(国宝)を残すのみであったらしい。

国宝・正倉院の見学は、離れたところからの外観見学のみであるが

無料で予約も不要。
ただし、宮内庁は土日祝休みの為、見学できるのは平日のみで、

朝10時から15時となっている。

毎年秋には奈良国立博物館にて「正倉院展」が開催され、大変貴重

な宝物の一部を見ることができる。

 

 

 

 

 

752年(天平勝宝4年)東大寺大仏開眼供養会に、中国からもたら

された物である。宝物の中で一際光彩を放つのがインド系直頸五弦

五柱の「螺鈿紫檀五弦琵琶」、阮咸二面、これらは日本では実用化

されていない。他に四弦四柱の漢琵琶が五面、これが我が国の雅楽

に楽琵琶として原形を留め今日に至っている。

 

 

 

 

14の音階 木&火&土&金&水=23

 

 

1&4&2&3=10(5 5)(11×5)

 

 

東大寺内にある正倉院は、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品

をはじめ、天平時代を中心に、ペルシャやインド、唐から

のものを含め、約9,000件もの貴重な美術工芸品を収蔵する

高床式倉庫です。建物自体も、国宝および世界遺産に指定

されています。

「奈良国立博物館」では、通常非公開である正倉院の宝物

の一部約50~70点余を、毎年10月下旬から11月上旬に

かけて、「正倉院展」と題して公開しています。

正倉院展は、正倉院にある宝物が展示される、奈良国立博物館

の特別展。

毎年品を変えて、シルクロードを伝わってきた異国の品や奈良

時代の貴重な宝物が見られます。年に一度の機会とあって

大人気で、入場待ちになることも。

正倉院展は「お祭り」ではないですが、毎年ニュースにもなる

奈良の秋の恒例行事。「秋の風物詩」のひとつと言えるでしょう。

奈良国立博物館の西新館・東新館が会場。

公開される宝物は、正倉院の宝物の全体像がわかるように構成

されています。聖武天皇・光明皇后の愛した品々のほか、シルク

ロードを経由した東西の交流を物語る宝物はどれも貴重なもので、

一度展示された宝物の多くは、10年近くは、再び展示されること

がないので、機会があれば毎年訪れたい展覧会です。

 

 

 

 

奈良国立博物館(奈良市登大路町、TEL 0742-22-7771)で

10月25日より、「第60回正倉院展」が開催される。

それに先立ち24日、報道陣や関係者らに内覧会が開かれた。

また、「虹龍(こうりゅう)の検開時に雨が降る」との伝聞が

ある通り、当日は雨に見舞われた。

 

 
 

珍品の虹龍(ミイラ化した貂)「正倉院展」

珍品の虹龍(ミイラ化した貂)「正倉院展」

 


 
 

琉球方面では虹を「ノギ」「ナーガ」と呼んでおり、

 

 

 

 

(Wiki)

ナーガ (नागNāga) は、インド神話に起源を持つ、精霊

あるいはのことである。

上半身を人間の姿で表し、下半身を蛇として描く構図を用いる

例もあるようだが、一般的なものではなく、経典等の記述に

おいては、コブラなかんずくインドコブラ自体の容姿を思わ

せる記述としてあり、インドや南伝仏教圏においては純粋に

蛇として描かれることの方が多い。東南アジアのインド文化圏

では、頭が7つある姿が多い。

インドの細密画に描かれたナーガ

釈迦悟りを開く時に守護したとされ、仏教竜王として取り

入れられて以来、仏法の守護神となっている。特に法華経

会座に列した八大竜王は有名で、その多くがもとはインド神話

でも有名なナーガの王(ナーガラージャ Nāga-rāja)であった。

天気を制御する力を持ち、怒ると旱魃に、宥められるとを降らす。

天候に関して責任感も持っているので、自身の感情を抑えたりも

する。チベットでは、樹の枝にも棲むとされている吉兆である。

ナーガと仏教の竜王

竜の起源に関する正確な定説は存在しないが、インドの蛇神で

あり水神でもあるナーガの類も、仏典が中国に伝わった際、

「竜」や「竜王」などと訳され、八部衆の一として組み込まれた。

彦火火出見尊(初代天皇の神武天皇)は、竜の腹から生まれており、

日本神話に登場する高志(のちの)の八岐大蛇、海神の八尋

和邇龍宮が、現在に伝わる。

治水や灌漑技術が未熟だった時代には、河川の氾濫や旱魃が続く

と、竜神に食べ物や生け贄を捧げたりした。その象徴が、神道

では櫛名田比売(くしなだひめ)などとして語られ、仏教では、

高僧が祈りを捧げるといった雨乞いの行事が行われた。神泉苑

二条城南)で空海が祈りを捧げて善女竜王清瀧権現)を呼び、

雨を降らせたという逸話が有名である。

 

 

正倉院の宝物は中国をはじめ、インド、イランからギリシャ、

ローマ、そしてエジプトにもおよぶ各地の諸要素が包含されて

いるとのこと。日本神話も紐解くと、世界に通じていることが

わかりますね~~クローバー