メシアは死ぬべきでなかったという概念は、旧約聖書と新約聖書両方の預言から、強力な聖書的根拠を見ることができます。イエスご自身の証言からしても同様です。

イエスが死ぬべきではなかったという、更なる証拠を探す前に、最初の願いであった路程から、悲惨な二次的路程へと取って変わるきっかけが、いつどのようにして移行されていったのかを尋ねなければなりません。

第一にヨハネの福音書から、キリストの公生涯の中で、過越の祭りは4回あったとわかります。(ヨハネ2:13、5:1、6:4、13:1)

このことを理解するなら、最初の路程から移行して二次的路程にとって変わったのがキリスト公生涯の3年目になろうとするときであったとわかります。

 

最初の2年間、イエスは差し迫った神様の王国を力強く宣言していました。

BG(バックグラウンド?)「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15) そして「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)

イエスは、死んで墓に埋められ復活するキリストではない、と福音が証明しています。

福音は王国の良い知らせであり、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(ヨハネ6:29) のです。公生涯3年目に、苦難の路程を目撃し始めたのです。

マタイによる福音書 16:21 によると「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。」とあります。

この時からという言葉の意味が示すのは、弟子たちは磔刑の運命について、その瞬間まで聞いていなかったということです。

摂理が突然移行したことは、キリストが受難の道をいかなければならないと告げたとき、弟子たちが混乱した様子だったことからも明らかです。「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。」ルカによる福音書18:34や他の福音書にも記録されています。(ルカ9:45、マルコ9:32)

さらに、弟子たちがイエスに質問したのが彼が昇天する矢先でした。「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」(使徒1:6) 

イエスが、イスラエルを通して物理的(実体的)な神の王国を告げ知らせるはずである、という期待があったことが証拠です。

過去3年間、毎日イエスと一緒に過ごしてきた弟子たちは、どうしてイエスが王国を復興すると期待していたのでしょうか。

もしイエスが、最初からカルバリのメッセージを説いていたとしたら、弟子たちはメシアの使命について、“誤った概念”を抱くような愚かさをしめさなかったでしょう。

神のひとり子と3年間毎日、話す貴重な機会が与えられていたときにです。

したがって、メシアの本来の摂理が急激に変化していることの証拠として、前述でキリストの語ったことばを添えたわけです。

イスラエルが、彼と一つになることが出来なかったことを知るようになり、キリストはイスラエルのために嘆き悲しみました。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」(マタイ 23:37-38)(ルカ13:34-35)

エルサレムの頑なで不従順(な態度)に対する彼の嘆きは、自分を十字架につけようとする画策についてより、イスラエルに神の慈悲深い呼びかけが必要だとするイエスの願いとして、聖書的に証明するもう一つの証拠となっています。

イエスは、イスラエルによってご自身を含め、神の預言者を次々に殺害してきたというパターンは、天の父の御心に反する行為であると述べています。

彼らの意志は、無条件の愛を前にしても頑なだったために、雌鶏が自分の子供を集めるように自分の子供たちを集める、と神が表された願いを実現できなかったのです。

イスラエルが見捨てられる、とイエスが宣言しました。「見捨てられる」(ルカ13:34-35)そして「荒れ果てる」(マタイ23:37-38)。メシア来臨の時に関して、イザヤ書62の預言をマタイによる福音書で直接否定しています。「また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、」(イザヤ記 62:3 -4)

イエスは涙を流しながら、イスラエルが、イスラエルの黄金時代をもたらす方を受け入れる使命を失敗したことを、聴衆にはっきりと語られました。

したがって、イスラエルは、救世主を十字架につけたため「見捨てられ」荒れ果てるのです。

ルカによる福音書19:41-44の中で、イエスはさらに進んで「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………」44節でイエスは、イスラエルがまさにそのようになる、審判の道を宣言します。「それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」イエスがこの日を特定したのは、イスラエル人が一時的にイエスに従うことができたという証拠です。そうでなければ、なぜイエスは彼らが訪問の時間を知らなかったと嘆くのであろうか…。イエスが祭司長や律法学者の手で十字架につけられることが神の本来の御心であるとするなら…。

イエスは、彼の初臨において実体的な神の国を創建出来なかったということを悟り、そのために泣かれました。

神の本来の願いを成し遂げるために、彼は再び来られなければならないでしょう。

このように、エルサレムに関するイエスの悲痛な発言から、神の御旨がイスラエルを通して成就されることはなかったことを示しています。

しかし、神の摂理の変更を嘆くのはイエスだけに限ったことではありません。

サンヘドリン(最高法院、最高議会、長老会)の謁見に立ったステパノは、義憤をもってユダヤ人の指導者たちを非難しました。

「ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」(使徒7:51-53)

ステパノは、ユダヤ人の行動を彼らの罪深い父親と比較し、彼らを救うために遣わされた義人を裏切ったと主張しています。しかし、なぜキリストの磔刑が「裏切りと殺人」になるのでしょうか?

ユダヤ人の指導者たちが聖霊に抵抗したと宣言することが、世の初めからの神の御旨だったとしたら…。ステパノは、彼らの行動が神の願いに反していたとはっきりと述べています。

さらに最初の殉教者による、不条理なパリサイ人に対する怒りは、イエスが当初ユダヤ人の指導者によって殺される予定ではなかったことを示しています。そうでなければ、イエスの十字架刑は神の根源的なものという意味になり、彼らに対するイエスの侮辱が、完全に際限なきものになるでしょう。

ユダヤ人が、イエスを十字架につけるという神の本来の御旨を成し遂げただけ、というなら、なぜステパノは(非難する)代わりに、神の御旨が今成就された、と喜びの賛美として叫ばなかったのでしょう。

かつて歴史上、神の預言者たちや聖徒たちを拒絶したり殺害することによって、神の御旨が成就されたという時代があっただろうか。

したがって、ステパノのイスラエル人に対する非難(罪の宣告)は、イエスがユダヤ人の手によって「裏切られ、殺害」されるべきではなかった、というさらなる戒めを与えてくれています。

神はイスラエルを通して、地上にご自身の王国を始めたいと願っておられました。イスラエルはキリストと一体となるはずでした。

伝統的なキリスト教神学は、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)というゲツセマネでのイエスの嘆願を、イエスの人間性の表われとして解釈してきました。この解釈は1 つの主要な理由で落第です。

イエスの唯一の使命が十字架だったというのが本当なら、イエスは「自分の意志ではなく、私を遣わした方の意志を行うために天から降りてきた」(ヨハネ6:38) となるだろうか。宣教活動の最も重要な時期にたじろぎ、ペテロを「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、サタン呼ばわりして懲らしめるだろうか。

その後、自身の死ぬべき運命の中、崩壊していきながら、中核となる弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じるイエスは、なんと偽善者でしょうか。

一息置いて、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と命乞いの誘惑が訪れます。キリストの嘆きは、彼の信仰の揺らぎからだと主張しましす。

この理屈なら、その後のすべてのキリスト教徒の殉教者は、神と一体ととなった方よりも、大きな愛と信仰を持つ、ということになってしまいます。

十字架を避けようとするより、むしろこちらのほうが異端である、と主張するのが私が立場です。

祈りの中で一貫した御心が明らかにされているように、キリストが神の摂理とイスラエルの民を憂慮されていたということは明確であります。しかし心に留めていただきたいのは、十字架のみが堕落した人類を救済することができるという、伝統的な(既存の)メシア観に固執するなら、理解することができないとうことです。

実体的な王国を建てるということが、旧約聖書と新約聖書の両方で裏付けされています。

メシアによって、神の主権を全世界に立てるということが、圧倒的な神の願いであったと提示しています。

イエスの言葉と行動、そしてこれまでに述べたすべてのことを踏まえるなら、イエスは、神の本来の御旨を成し遂げようという思いから、もう少しだけ時間を与えてください、と主に懇願しました。

キリストの絶対的な忠実さを貶めないための説明として、イエスの言葉と行動、およびこれまでに述べたすべてのことに基づいて、イエスがただ神の本来の御旨を成し遂げるということのために、「もう少しだけ時間を与えてください」と主に懇願したのです。

それは地上王国を求める天の御父の熱烈な願いに対するイエスの最後の働きでした。そのため、彼は「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という必死の嘆願を口にしたのです。

血の汗にまみれながら、彼はこの願いを一度ならず、三度にわたって懇願しました。

しかし、一世紀のユダヤ人の頑固さのゆえ、神は、ご自身の御旨がイエスの世代には実現しないことをご存じでした。

伝統的なキリスト教の解釈とは異なり、元来のイエスは天の父に対する忠誠心が際立ちます。

それは同時に、昔の預言者によって語られた、統治する王になるというイエスの目的をもう一つ示唆するものでもありました。

しかし繰り返しますが、この説明は、キリストの本来の使命という考えに立ってこそ一貫性があります。

十字架につけられる運命ではありませんでした。

このようにして私たちは、旧約聖書と新約聖書の膨大な証拠を調べることにより、十字架がキリストの運命ではなかったことを示してきました。

キリスト教神学の、歴史と絡み合った側面を深く掘り下げていくと、神の新しいイスラエルに向けられた、継続的な神の祝福を見始めるようになるでしょう。

この変化が歴史と現在進行中の復帰摂理に多大な影響を与えることが分かるでしょう。

私たちに見える形で、この転換点は、進展している復帰摂理が歴史的に相当な影響を及ぼすでしょう。

それではまた、あなたとあなたのご家族が、とても幸せな一日を過ごされますことを願っています。

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