作家の吉行淳之介さんが、そうでいらしたように、詩人の飯島耕一さんも、中年期から初老期にかけて鬱病をなさったようでございますね。そのご体験を元に書かれた詩(「ゴヤのファーストネームは」高見順賞受賞)のなかで、亡くなられた年上の友人との外国旅行を描いていらっしゃいましたが、そこの箇所の、何とも言えぬ、哀しい、懐かしさ。比類がないようにおもわれました。




飯島耕一詩集『ゴヤのファースト・ネームは』初版(青土社)

「きみはゴヤのいた
 土地を
 一人の男と歩きつづけた
 そしてその男はもう生きていない
 彼と二人で きみは
 オリーヴの荒野を
 いつまでも見ていた。
 その男にとって
 そのオリーヴの木は
 『見た』ものの最後になった。」


吉行淳之介氏 結核、喘息、鬱病やC型肝炎と吉行淳之介流で共存なさいましたね。




わたくしも、鬱病のとき、なぜこんなにも思い出すのかと訝るほど、死者のプレゼンスが、異様なまでに高まりました。

わたくしには死者の語る声は、近しく、懐かしく、嘘がないように思われ、しばし、恍惚とさえ呼んでよいような心で、耳を傾けました。


また、落語を聴くと、心が平らに、なりましたのは、発見でした。

落語家の皆様のあの一人がたりには、何かしら、かそけくなったり、あるいは、尖りすぎたような心の折に、深く触れるものがございますね。

その後、精神分析家藤山直樹氏の『落語の国の精神分析』には、極めて多くの示唆を頂戴いたしました。


医学部、看護学部、社会福祉学専攻での医療倫理、生命倫理、終末期ケア、対人援助論の授業にて、文学や映画を教材とする取り組みがございますが、落語を取り入れた授業をなさっている先生方もいらっしゃるようで、瞠目いたしました。(『医学教育』2016年2月、vol47.(1)17〜18ページにて、落語「死神」をシネメデュケーション授業の教材とした報告が聖マリアンナ医科大学の方々から、ございましたね。)

これらの試みは、極めて正鵠を射た試みと感じます。


また、古くは漱石や子規の病床の作品、あるいは『続高見順日記』など作家の入院時の日記は、将来医療に携わる方々には、機微に触れるご表現が多く、甚だ示唆に富んでおりますし、幻聴幻視を、哀しく深く、文学として、彫琢し得た色川武大氏の『狂人日記』などの作品も、良きタイミングにて、若い方々にうまく伝えることができましたら、素晴らしいことですね。















高見順日記は、近代文学史に遺るでしょうが、臨床的な資料としても、大切なものだと感じます。


高見順氏


色川武大氏『狂人日記』(福武書店)
読売文学賞受賞

幻視、幻聴に長年向き合ってこられた方によって描かれた作品によって装幀された名作です。
現在は、講談社文芸文庫に。


精神科医岩井寛先生『生と死の境界線』(松岡正剛氏が聞き手となっていらっしゃいます。)や、神谷美恵子先生の『ヴァジニア・ウルフ研究』など、こころ、いのち、について考える上で貴い文化的財産と存じます。
『生と死の境界線』は講談社学術文庫などで復刊していただけましたら、とても嬉しく存じます。



ソーシャル・ワーカーの経験があるカズオ・イシグロ氏の作品も、きわめて重要であると存じます。氏の作品を幾度も読み返しておりますと、今は誰もが口にする「寄り添う」という動詞の意味が、あらためまして、心身そして魂に沁み入るような感覚になるときがあります。


やはり、フランクルの著作も、忘れずに、ということになりましょうか。


数学者岡潔博士の随筆も素晴らしいですね。