なんとなく立ち上げたブログを、なんとなく2ヶ月も放置してしまった。
前回のブログを読んで感想をくれた人のことは頭にありながらも、どうも筆が進まなかった。
言いたいことが自分でもまとまらず、中途半端な文章を書いては消し、そのうち書くのも億劫になった。
今こうして書いているキッカケは、戦争が始まったこと。
それで心が動いたことだ。
「始まった」とは言ったものの、ウクライナは8年間戦争をしているというほうが正しいが…。
ともかく、居ても立っても居られなくなったのだ。
己の無力さから、せめて現実だけは直視しようとひたすら情報収集をした。
インターネットを開けば様々な主張、意見、エゴ、ポエムなど、いろんなものが流れてくる。
この状況を良いことに自分の理論に話をすり替えたり、「寄り添ってる感」を出すことに全力だったり。
人間は結局自分のことばかりだ。
見ていてとてもつらかった。
しかし平常運転へ戻れる気分ではなかった。
とはいえこれ以上要らぬストレスを抱える余裕も無かった。
自分の感情と感情の間に過ごした時間は、長く感じた。
そんな時に頭の中に響いたのが、国府達矢の楽曲「not matter mood」の一節だった。
"誰かの地獄の上にここがあるとして
誰かの悲鳴の上にここがあるとして
あるとしても"
この曲のタイトルを直訳するならば、「心は、気分は関係ない」になるだろうか。
どこかで誰かが苦しんでいる。
苦しんでいるとしても、関係ない。
結局どこかで他人事なのだ。
その気持ちがわかってしまう。
自分が嫌悪感を抱いた、自分勝手さは私自身にも確かにあった。
わかってしまうことがなんとも背徳的だった。
理性とは裏腹に、心はすぐに移り変わってしまう。
生きることとは、なんと罪深いことだろうか。
この曲に限る話ではなく
特に好きなミュージシャンのひとり、国府達矢の詞に私は生への背徳感を感じる。
綺麗なものではないが、誰もが持ってしまう感情や、「なんとなく」生きてしまうことへの罪悪感。
それを切り取り、歌にしていく。
自分自身の一番見たくない部分と向き合い、ひたすら形にしていく。
そんな彼の楽曲はどこまでも人間らしく、その人間らしさに自分の影を見てしまう。
時々聴いていて胸が痛くなる。
それほど心に深く刺さる音楽である。
自分を見つめることが、人間にとって一番苦しいことかもしれない。
そう思った。
国府達矢自身、自分の曲と向き合うのは苦しいらしい。
2003年に「ロック転生」をリリース後、次作の「ロックブッダ」リリースまでは15年の時間がかかった。
もともとはびっくり箱のようにアイデアを詰め込んだ、まるでお祭りのような果てしない生命力に満ちた楽曲を作っていた。
しかし「ロックブッダ」の制作が長期化する中で陰りが見え始める。
15年に及ぶ月日の中でも、3年ほどは廃人のように過ごし音楽も作れず、本人曰く
「死に向かっていた」
という。
その状況で最後の執着である音楽へ、自分の影の部分をすべて描いた。
かくして彼の楽曲は「ロック転生」「ロックブッダ」など躁の部分と
「スラップスティックメロディ」「音の門」の鬱の部分がそれぞれ存在している。
2018~2019年の間アルバムを3作立て続けにリリースした後、彼は自分の影の部分について
「これを認めざるをえなかったし、認めてしまうことで、なんとか楽になれた」
と語っている。
誰もがいつだって胸を張って生きれるわけではない。
だからこそ、そんな影を「認めてしまう」音楽はある意味究極の生への肯定なのかもしれない。
少なくとも今の私は救いを求めて、ただすがるのみである。
今日も、うぬボケてなんとか生きていく。