いただきます! | 少年草子

少年草子

ふと、皆が貧しかった日本の終戦前後に少年期を過ごした私自身の思い出の風景を綴ってみようと、ブログを始める気になった。亡き妻を相手に雑談をするくらいの気軽な雑記帳と捉えていただければ幸いである。

私が小学3,4年生の頃が、日本が最も貧困と食糧難に喘(あえ)いでいた時代であったと思う。


………1945年8月15日の終戦を経て、学校給食が全国的に施行(しこう)されたのは1947年1月。

それまでの昼食時間というのは、私が通っていた田舎の小学校ではマトモな弁当を持ってこれる生徒はごく僅(わず)かで、サツマイモの蒸(ふ)かした物等を代用食として持参していた農家の子供である私などはまだ良いほうで、それすらも持参出来ない生徒はクラスで7,8人は必ずいたものである。

彼らは昼時になるとソッと教室を抜け出し、校庭の水道水で腹を満たしていた。

子供達は常に腹を空(す)かせていたので、他人に食事を分け与える余裕も無かったし、仮に分け与えようという心理が働いたとしても、それはそれで弁当を持って来れない生徒達に対して妙な罪悪感が起きるような気がして、結局、何もしない事を選んだ。


アメリカ人の摂取カロリーは3500キロカロリーで、日本人の3倍以上だ。


私達の先生は、日米の栄養摂取の歴然とした差を殊更(ことさら)に強調していたものだ。


当時の平均月収500円で5人家族が標準家計簿で生活した場合の、日本人一人あたりの1日の平均摂取カロリーは新聞社試算によると1109キロカロリーとなる。
配給食糧だけでは即栄養失調だ。あとは闇市か、農家から直接食材を買うなどをしなければ生きていけなかった。

実際、当時の京浜地区(…東京特別区から神奈川県川崎市及び横浜市にかけた一帯)では分かっているだけでも1日平均9人の餓死者が毎日続出していたという記録もあるが、これはホンの氷山の一角で、実態はもっと凄(すさ)まじいものであったであろう事は想像に難(かた)くない。


戦争における日本とアメリカとの武器装備の相違は分からなくとも、栄養に関する歴然とした差は先生の話からでも理解は出来た。

子供心に、戦争に負けたのは食い物の差なんじゃないかと単純に思ったものだ。


【↑ハーバート・フーヴァー

戦後の日本に視察に来た国連救済復興機関代表であるハーバート・フーヴァー(第31代元アメリカ大統領/1874~1964)は、日本の子供達のあまりの悲惨な栄養不良状態に驚き、連合国軍最高司令長官ダグラス・マッカーサー(1880~1964)に学校給食の早期開始を進言した。


このハーバート・フーヴァーという人物は、第一次世界大戦(1914~1918)にて敗北したドイツにおいて学校給食を実行させる為に尽力(じんりょく)した事でも知られている。

大統領在任時には経済恐慌に喘(あえ)いでいたアメリカにおいて何ら有効策も打てず、余り評価の高くない指導者であったが、別の場においては実のある仕事が出来たようだ。


………やがて、マッカーサーの素早い決断により、フーヴァーから進言されたその年(1946年)の12月、早くも一部地域にて試験的に給食が開始された。


【↑ダグラス・マッカーサー執務室

東京・有楽町駅から北西150メートルに位置するオフィスビル【DNタワー21】内に、旧第一生命館にあったマッカーサーの執務室が現在も保存されているが、彼の愛用していた机を見ると、その仕事ぶりが垣間見える。


マッカーサーの机には引き出しが無い。


占領軍のトップとしてクリスマスや誕生日もお構い無し、日本の観光地を回る事もなく、ひたすらに仕事に没頭(ぼっとう)し、仕事を溜(た)める、後回しにするという事を極力避けていた彼の姿を、遺(のこ)された机が物語っている。


………アメリカからは約5000トンもの缶詰めが提供され、ユニセフ(UNICEF…United Nations Children's Fund=国連児童基金 )からは脱脂粉乳(だっしふんにゅう…牛乳から脂肪分を除去し、粉末状にしたもの。飲む際には湯で溶かす)が支給された。


合掌(がっしょう)…いた~だき~ますッ!


弁当を持って来れずに外で時間を潰(つぶ)す者、代用食で腹を満たす者など、バラバラだった昼食の時間に、教室の生徒が全員で一斉に胸を張って唱和し、皆で同じ物が食べれたアノ時の感動は、明るく希望に満ちた瞬間だった。



学校給食のお陰で日本の児童の栄養状態が大幅に改善されたのは間違いない。これは感謝してもしきれぬくらいだ。

脱脂粉乳と惣菜(そうざい)だけの簡易(かんい)なもので始まった給食も、後年、完全給食となり、やがてパン食が急速に全国に浸透(しんとう)し始めた。


…………アメリカ側の政治的思惑(おもわく)としては、余剰(よじょう)小麦等の自国の穀物(こくもつ)を日本に大量に売り付けようとする所謂(いわゆる)【穀物戦略】や、日本の和食文化を崩壊させ、食文化を通して全てをアメリカナイズさせ、共産主義の侵攻を食い止めようとする意図もあった事は事実であろう。

実際、和食には欠かせない醤油(しょうゆ)産業すらも壊滅(かいめつ)させようとする動きが当時のGHQ(連合国総司令部)にはあった。


日本が戦争に負けたのは米食のせいだ!

米を食べると頭が悪くなる。

パン食こそが頭も良くなり、体力も上がるのだ!


………政治的意図の絡(から)んだ栄養指導車の巡回や様々な宣伝活動の効果もあって、こういう声が日本人側からもチラホラ出てくるようになり、その後の日本の食生活は見事にアメリカの思惑通りとなり、米の消費量は下降の一途、田んぼは減反(げんたん→米を作っても余る為、生産を削減させる事)に次ぐ減反で、日本の食糧自給率はカロリーベースで昭和40年(1965年)でも73%だったのが、現在では40%に届くかどうかという事態となっており、言い知れぬ不安が頭をよぎる。

海外からの輸入飲食物を否定するわけではないが、自国民の食べる分を自国でまかなえないというのは独立国としてはいかがなものか?

………国家の自衛を説くのも勿論大切な事だが、いざという時を唱えるのならば、【いざという時の為の】食糧の自給自足を考える事もまた、大切な事だと思う今日この頃である。